澄香の暑中見舞い

 

今年の夏は例年より暑くなるらしいが、人より鈍いでんでろにとって、夏がどうだろうと変わらない。
むしろ苦しいのは、夏が近づくたびに「あの事」を思い出してしまうことだった。

澄香と初めて会ったのは10年前、父親から再婚相手を紹介されたときだった。
街の小洒落た喫茶店で、これから自分の母親になる色白のほっそりした女性の隣で
フリルのついた水色のワンピースを着込み、
ショートケーキとアップルジュースを前にして、うつむいていたのが澄香だった。
母親の再婚という現実を、6歳という年齢でどう受け止めればよいか分からない、そんな感じだった。
おとなしい子なんだな、でんでろはそう思ったが、
澄香に負けず劣らず黙っており、学校の話を振られてもコクン、コクンと頷いていただけだった。
「来年は澄香も一年生だから、一緒に学校に行ってあげてね」
澄香の母親がそう言った時に、消え入りそうな声で
「うん」
と、ようやく声に出して返事ができた。その声に反応した澄香と目が合った。
それが始まりだった。なんとなく仲良くなれそうな気持ちがした。
ほどなく一緒に暮らすようになったが、なかなか打ち解けることができず、
ほとんど口をきけずに気まずい日々を過ごした。
「お兄ちゃん」
そう呼んでくれるまで、半年以上かかったと思う。
親の再婚という事実が、なんとなく汚らわしいもののように思え、
普通の夫婦の元で暮らす同級生たちと疎外感を感じてしまい、
しばらくは学校に友人らしい友人もできなかった。
毎日寄り道もせず直帰していたので、自然と兄妹で過ごす時間が多くなった。
いつしか兄妹という間柄を越えて愛情が生まれた。
同じおもちゃを欲しがり、一緒に勉強し、同じ日に自転車を買ってもらい、
ファミコンで遊び、他愛のない話で一緒に笑い、中学まで同じ部屋で眠った。
別の部屋で寝るようになってからは、埋め合わせと称して休日に人目を忍んで買い物や映画に出かけた。
お互いのテンションがあがると、街中で手を繋いで歩いたりした。
そんな日々が永遠に続いてくれればと願っていた。
10年は続いたが、永遠には続かなかった。

きっかけは些細な事だった。
ふたりが血が繋がっていない兄妹という事を記憶する同級生も減ってきた高校2年の春だった。
でんでろの友人に、澄香に気があるヤツがいる。
澄香は、田舎で行ける高校が少ないことを理由に、当然のごとく兄の通う高校に入学してきた。
そこでちょっとした噂になってしまった。でんでろに似てない可愛い妹が入学してきた、と。
同級生達に澄香には彼氏がいるのかをしつこく訊かれ、返答に困ってしまった。
血が繋がっていないとはいえ、戸籍の上では兄妹だ。
その事実に悩む日々が始まり、ついにただの兄妹になろう、と決意した。
このままでも二人とも幸せにはなれない、悩んだ末に出した結論だった。
これからは普通の兄妹になろう。そう切り出したとき、澄香は泣き出してしまった。
心の何処かでずっと怖がっていた。でも、絶対に口に出してはいけない言葉だった。
何度も何度も説得し、何度も何度も謝った。
自分はダメな男だ、他に好きな人ができた、そういった話を繰り返したが、
澄香はまるで信じている様子はなかった。泣きながら頭を振って
「イヤ…。独りに…しないで」
と繰り返すだけだった。
兄妹だと一緒になれない現実と向かいあう時が来たことを、口に出さなくても悟っていた。
でもその事を認めたくなかった。泣いていやがる澄香をなだめながら、
親同士は再婚したのに。自分たちは一緒になれないのはずるい、でんでろは思った。
でんでろの下手な言葉で、納得なんてしてくれるはずがない。
「今度生まれ変わる時は、兄妹じゃなくて恋人に生まれよう。次は一生大事にするから」
「生まれ変わるまでなんて待てないよ。今から大事にしてよ。今までみたく大事にしてよ」
そんな押し問答を何時間も繰り返したが、泣き疲れた澄香がようやく冷静さを取り戻した。
ふたりはなんとか感情を押しとどめ、夏祭りで最後に楽しむことを決意した。
幼い頃から何度も行った町の小さな夏祭り。
ふたりが初めて手を繋いだのも、その夏祭りだった。
迷子にならないように、と両親から無理矢理繋がされ、最初はお互い照れくさかったが、
一度繋いだら澄香が絶対に離そうとしなかったのを覚えている。
あの夏祭りなら、ふたりの切ない気持ちも笑顔で終わりにできるかもしれない。
澄香は泣きはらした赤い目で、懸命に笑顔を作り、
「可愛い着物、着ていくね。お兄ちゃんに貰ったブレスレットもつけていく」
と言った。そのブレスレットは、でんでろが高校一年の頃、
初めてバイトした時の給料で買ってあげたものだった。
「いきなり万単位のお金なんて貰っても、遣い道ないんだよな」
そういうと、澄香は読んでいた雑誌を指さし、からかうようにして言った。
「じゃあ、このブレスレット買ってよ」
高校生には高価な物だった。
冗談でねだられていると分かったのだが、でんでろは買ってきた。
お互いの気持ちはもう知っているくせに、もっといい格好したい、そう思ってやったことだった。
澄香はそれを手渡されたときに、でんでろの前で一度つけたっきりで、
あとはずっと机の中に大切にしまっていた。
気持ちに区切りをつけるのに、あのブレスレットは逆にふさわしくないかもしれない。
大好きなお兄ちゃんと腕を組んでヴァージンロードを歩く時に取っておきたかった。
そんな想いを抱くのもこれで最後だ。最後ならせめて兄に貰った大切なものを身につけておきたい。
その気持ちはでんでろにも分かった。
ところが夏祭りの8月10日

澄香は待ち合わせの場所に来なかった。

目撃者の証言によると、澄香は川に何かを落としてしまい、
それを探しに行こうとして深みに足を踏み入れて…。
おそらくはあのブレスレットだろうとでんでろは直感的に悟った。
警察と地元の人間が手を尽くして捜索したが、ついに澄香の遺体はあがらなかった。
遺体のない葬式でどこか白々しい読経を聞きながら、
香澄はきっと生きている、でんでろはそう信じようとした。
その一方で、死んだとしたら自分のせいだ…
夏祭りに行こうなんて言わなければ…
澄香の気持ちを傷つけたりなんかしなければ…
後であんな残酷な仕打ちをするなら、ブレスレットを買ったりなんて
澄香を死なせたのは俺だ、傷つけたときに死なせたようなものなんだ。
だが、澄香は生きていて、いつか逢えるという可能性だってある。
遺体はあがっていないのだから。

そして2年の歳月が流れた。

でんでろは大学生になり、実家から遠く離れた街に住むことになった。
季節は本格的に夏へ突入しようとしていた。
テストが終わり、土日を挟んでちょっとした連休ができたが特に予定はない。
その連休を利用し、自分と同じく予定のないという同級生と、
とある田舎に旅行に出かけることになった。
知る人はほとんどいない秘境だが、天然の温泉が出るらしい。
いつも通っている大学の駅から、列車を乗り継ぐこと3時間、
バスに乗ること2時間の、超がつくほどのど田舎である。
バスを降りて伸びをひとつし、生ぬるい空気を胸一杯に吸い込む。
田舎の道はカーブが多く、前日にあまり寝てないことも手伝って少々バス酔い気味だ。
雲一つない強い日差しに左目を細めていると、
旅行の同伴者で同じ大学の同級生、岡山明里もバスから降りてきた。
「でんでろくん、涼しいところに連れてってくれるんじゃなかったのー?」
バスを降りるなり、唇をとがらかせた。
「そんなこと言ってないよ。安く済みそうなパックツアーを
 ネットで手当たり次第あたって見つけたって言ったろ?」
「そんなの聞いてないよぅー」
明里がグチグチ文句を言う。
彼女とは大学に入学して以来、故郷が近いことがきっかけで
仲良くなり、何度か映画を観に行ったりライブを行ったりした程度の友人以上恋人未満の間柄だ。
出会って3ヶ月経たないうちに、レポート絡みから早くも頭が上がらなくなっている。
宿に着くまですっかりいつもの調子の愚痴は収まりそうにない。
こりゃしくじったか・・・・。
この旅行で友人以上恋人未満から、ステディな関係に一気に昇進!
あわよくば彼女の×××に自分の○○○をスロットイン、
初めてのクロスフュージョンを絶対に決めてやる!
そんな壮大なプランを立てていたでんでろは、早くも怪しい雲行きに被害妄想を膨らませていた。
なんとなく気まずい雰囲気になり、言葉少なに宿までの道のりを歩くふたり。
すでに明里の分の荷物のほとんどを持たされているが、せめてものご機嫌取りにと、
完全に手ぶらにしてやった。
まだまだ気温は高いが、陽はそろそろ西に傾きかけている。
歩くこと20分、湯煙が立ち上る民宿が見えてきた。
古びてはいるが、悪くない宿の雰囲気に、明里もやや機嫌をなおしてくれたようだ。
だが、でんでろは何か得体の知れない不安を感じた。
出迎えてきた宿の主人に何か言いようのない気配を感じたのだ。
部屋の鍵を渡され、廊下を歩いていると、曲がり角の先から騒がしい声が聞こえてきた。
「私たちの他にも若い人たちが泊まりに来てるんだ・・・」
「そうみたい・・・。でも、なんか聞き覚えがある声のような」
角から顔を覗かせたのは、ここで出会うはずのない男達だった。
「よお、でんでろに岡山さん!」
「げっ!なんでお前らがここに!?」
大学の悪友ども、鬼頭刈雄、犬野不栗、加瀬井穂雨桂だった。
「すっげー偶然!?」
「ナニナニ?ふたりっきりで旅行?」
「てめーらなんでここに!俺達をつけてたのか!?」
コイツらがいては、俺は夜の帝王としてデビューできない!
現実を受け入れられず、悪友どもを問いつめたが、
「えー、オレらの方が先に着いてたよー?」
と、しらばっくれるばかりだった。だがその口元がにやけている。
コイツらはコイツらで、それぞれ明里を狙っているのだ。
宿選びを、大学のネットやっており、その履歴を辿ってばれたらしい。
女性とふたりで行く事だけを秘密にし、旅行に行くこと自体は秘密にしていなかった。
明里と二人きりで嬉しくも気まずかったでんでろは、怒りつつも少し安心した。
悪友共と4人で、女湯を覗く覗かせないの馬鹿騒ぎをしたあと、
5人揃って、一緒に夕飯を食べた。
明里さんはどう思っているだろうと思って、ちらちらと明里の表情を探ってみた。
二人きりで旅行に来てくれるということはOKに違いない!
ところが悪友どもの邪魔が入り、さぞかしむくれているだろうと思ったが、
むしろ上機嫌で、悪友どもと談笑している表情に少し残念に思った。
田舎の夜は早く、旅の夜は長い。夕飯後は5人でUNOを延々とやって盛り上がっていた。
白熱の対決も、明里の一人勝ち、でんでろの最下位の傾向が顕著になり始めて
下火になり、5人の感心はTVに移っていった。
鬼頭が、もう一度温泉に入る、といって出ていった。
犬野がトイレに立った。加瀬井がジュースを買いに行った。
三人が三人とも、1時間経っても帰ってこないかった。
明里とでんでろの仲をあれほど邪魔しようとしていたのに、
今度は急にいなくなってしまい、少し心配になった。
探しに行こうにも、今日着いたばかりでこの村の地理など無いに等しい。
「そういえばあいつら、肝試しの話とかしてたよな。近くに出そうな雰囲気ある墓地があるとか」
「ええ〜 やだよ〜」
でんでろは、怖がる明里を連れて、悪友達が話していた近所の墓地に行ってみた。
安っぽい人魂や竿につるしたこんにゃくを用意しふたりを驚かそうする悪友共、
そんな展開を期待していたが、そこには人っ子一人いやしなかった。
「あいつら気を遣ったのか…」
二人きりしてやろうとする悪友共の粋な計らいに違いない。
それは大いなる勘違いだったことが後で判った。
ふたりは宿に戻った。

夜更けの月明かりの差し込む部屋で、でんでろは一人、天井の模様を眺めていた。
明里とは始めから別の部屋で寝ることになっている。
始めから二部屋とってあるし、予定外の友人達がいつ戻ってくるか分からない。
そう言い聞かせたが、宿に戻ってからムード造りなどまるでできなかったのが本当だ。
自分のヘタレっぷりが悲しくて眠れない、それでいて悶々とした夜を過ごしていた。
天井の模様がなんとなく女体に見え、それに反応する股間のシンクロチップを持て余して
寝返りを打ったその時、
「でんでろくん…」
と声をかけられた。寝返りをうった方向から。
そこは暑くて開け放していた障子と縁側があるだけだったが、いつの間にかそこには人影があった。
「あ、明里さん!?」
身を起こしかけたでんでろに、浴衣一枚の明里がしがみついてきた。
「明里さん、何を・・・」
「何って、でんでろくんが考えているとおりに決まっているじゃない」
うん、訊かなくたって判っている。でも訊かずにいられるものか。
そんな漫画みたいな展開、夢ではないかと疑わずにいられるものか。
明里の頭からはシャンプーの甘い匂いがした。
意外に肩とか細かったんだ。夢みたいにかき消えたりもしないし。
多分、夢じゃないっぽい…。
「考えているとおりって…」
「でんでろくんって、女の子とふたりきりになっても何もしようとしないんだね」
「それは…」
何をすればいいのか切実に分からなかったためで・・・。
さっきは別々の部屋に寝ることに同意したじゃん。女って生き物はまったくワケが分からない。
いや、このまま明里さんとクロスフュージョンできるなら理屈なんてどうでもいい。
ああ、ついに俺もひとつ上野男になるんだ。少し意味が違う。
「こないだ映画観に行った帰りもそう」
巧みにリードを取っているかに見えた明里だが、
いつもより声がうわずっているのにでんでろは気が付いた。
明里も思い詰めた果ての行動で、負けず劣らず緊張しているのだ。
彼女の独白は続いている。でんでろは、緊張している明里は饒舌なことを思い出した。
「電話してもメールしてもそうだし」
「そうだっけ…」
「でも、私にも責任あるよね。お互い好きだとか言ってなかったし」
「うん…」
こうなったら男として覚悟を決めるしかない。
大げさな決心をして明里の背中に手を回そうとしたときだった。
「他に好きな女の子がいるの?」
「─────!!」
でんでろはハッとなった。
明里の言葉で不意に思い出した。二年前に死んだはずの妹の事を。
硬直したでんでろに、今度は明里がハッとなった。
余計なことを言ってしまった。触れてはいけない事だったのかもしれない。
首の横から抗いがたい加減で背中に回されていた明里の腕の力がやや緩んだ。
その瞬間、でんでろは明里の躰を突き放してしまった。
正確には急にでんでろが身を引いたのだが、突き放した形になってしまった。
明里と目が合ってしまった。
その目は、別れを切り出されて泣いていた澄香の目とよく似ていた。
その視線に耐えられなくなり、
「ごめん!」
と叫んで、でんでろは部屋から一目散に逃げ出した。

それからのでんでろは、星を眺めて一晩中、村を彷徨った。
月明かりを頼りに村を歩きながら、澄香が消えた2年前の夏を思い出していた。
遺体があがったら自分も死ぬつもりだった。
妹を失ったまま生きる現実はあまりに苦しく、死への誘惑は甘く抗いがたかった。
見かねた両親や教師達から、地元から遠く離れた大学への進学を勧められ、
猛烈に勉強することになった。勉強させることで妹の思い出から気持ちを逸らし、
先は遠く離れた地で暮らさせることで忘れさせようと計った荒療治であった。
そしてそれは成功したかに見えた。高2の時の偏差値ではあり得ない大学に合格した。
入学してすぐ、仲良くしてくれる女の子もできた。
だが、忘れる事なんてできてなかったのだ。

翌朝、明里に謝ろうと部屋に帰った。謝っても許してなどくれないかもしれない。
もう口もきいてくれないかもしれない。でもそれも仕方ない。
昔好きだった女性への想いを吹っ切れていない人間に、他の誰かを愛する資格なんてないんだ。
明里は部屋にいなかった。荷物もなかった。
携帯を取り出したら、圏外で繋がらないことにその時気付いた。
きっと呆れられたのだ。もう帰ったのかもしれない。
しばらく待っても明里は姿を見せなかった。
会計を済ませ、ひとりで自宅に帰った。
自宅の郵便ポストを開けたら一枚の葉書が入っていた。
宛先がでんでろ宛になっていたが、消印が押されていない。直接ポストに放り込んだのだろうか。
葉書は暑中見舞いだった。

「暑中お見舞い申し上げます。お兄ちゃんどうか先日行ったあの村には行かないでください」

澄香の字だ。
忘れるはずがない。交換日記をつけたこともある。
差出人は書いていなかったが、絶対に間違いない。
澄香は生きている。
あの村には行かないで。その真意は分からないが澄香は生きている。
明里他三名もまだ村にいる。何かに巻き込まれたのだろうか?
正確なことは何も分からないが、確信があった。
助けに行かねば。でんでろはまたあの村に戻ることにした。

でんでろが再度村に着いたとき、時はすでに夕刻だった。
村に何か得体の知れない雰囲気を感じた。
昨夜泊まった宿に戻ってみた。でんでろは泊まってはいないのだが。
宿には人の気配がなかった。まだ夜更けという時間でもないのだが。
不審に思って宿の中に入ろうとしたら、後から突如声をかけられた。
「おや、まだ村にいなすったか」
振り向くと、宿の主人だった。
「帰ったんじゃなかったのかえ?」
「ええ、まあ…。あの、昨日僕と一緒にいた友人達はまだこの宿に?」
女の子を怒らせて、姿をくらまされた挙げ句、
一旦自宅に帰ってから一日経たずに戻ってきたとは、
傍から聞くと間抜けな話だが、その辺は自分を誤魔化しつつ訊いてみた。
「ああ、まだおるよ。でも会うことはかなわんよ」
「え…?なんで…」
「この村へ来て、外に戻れる人間は…」
「??」
「死んでもらう掟なんじゃぁぁぁぁぁっ!!」
「っ!?」
突如叫んだ主人の口から入れ歯が落ちた。
「おじさん!入れ歯!」
と思わず声を出してしまったが、主人は聞いちゃいなかった。
宿の主人は姿勢を低くし、でんでろに飛びかかってきた。
年齢からはあり得ない素早い動きだ。その目は白目を剥いていた。
何かに取り憑かれている───?
そう思ったときには、鳩尾に膝を入れられ、壁を背に叩きつけられて張り付けにされた。
主人の指がでんでろの喉に食い込んでいる。引き剥がそうとするがピクリとも動かない。
なんだこの村は…!
でんでろは呼吸困難で意識を失いそうになった。
喉にかかった力が急に抜けたと思ったら、宿の主人が視界から消えた。
主人はでんでろから見て左の方向へ吹っ飛んでいた。
吹っ飛んだのと反対の方向に、顔を布きれで隠した着物の少女が立っていた。
布から流れる長い髪は、頭の後で三つ編みにされている。
「おのれ小娘!邪魔するか!」
「去りなさい」
少女が手を交差させ、手で奇妙な印を結ぶと、少女は青白い光に包まれた。
それを見た宿の主人は、電気ショックを受けたようにガクガクと痙攣し、ぷっつりと倒れた。
首を押さえて動けないでんでろのもとへ、三つ編みの少女が近づいてきた。
「大丈夫?」
その声に聞き覚えがあった。
顔を布で隠しているが、声を聞いて確信した。
「君は…澄香か?」
だが、少女は首を振った。
「違う。私はこの世界の番人…みたいなもの」
その腕には見覚えのあるブレスレットをつけていた。
初めてのバイト代をはたいて澄香に買ってあげた物だ。
あの日の夏祭りに来るはずだった澄香なのだ。
青白く光って宿の主人を吹っ飛ばし、気絶させたのもあのブレスレットだろう。
でんでろは口を開きかけたが、少女は歩き出した。
「あなたの友達を助けないとね。手を貸すから」
助ける。やはり何かが起こっているのだ。だが何が起こっているのかはちっとも要領を得ない。
「この村は一体?」
「この村はね、「想い」に支配された世界なの」
「「想い」って…」
「あなたの友達の明里さん、あの人はあなたとの仲を本気で考えていた。
 男友達の3人は本気であなたと明里さんの仲を邪魔しようとしていた。
 4人は「想い」に囚われた…」
少女の説明を聞いても、普通の大学生であるでんでろには理解できなかった。
「想い自体には主体性がない。こうありたいと願う人間に心に応じて、あり続けようとするだけ。
 そして、いろいろな人の想いを取り込んで、膨らんでいくの」
「なぜ俺だけ何もなかったんだ?」
「あなたには、「迷い」があったから」
迷い。妹のことを思いだして明里の想いを受け止めることができなかった事だろうか。
「明里さんや他のみんなは無事なのか?」
「うん、村外れの墓地にいると思う。今ならまだ助けられる」
それも大事だが、この少女が澄香なのか。本当は生きてのか。それを確かめたかった。
だが、その問いかけの答えはさっき否定されている。怖くてもう一度は訊けなかった。

昨晩、明里とふたりで訪れた村外れの墓地へ着いた。
そこに見覚えがある人影が立っていた。明里だった。
「明里さん、昨日の事はごめん…」
でんでろが声をかけると、明里はゆっくりとこちらを向いた。
その目は妙にうつろで…。
明里がでんでろへ向かって片手をあげた。
「危ない!」
と叫んで、三つ編みの少女がでんでろと明里の間に飛び込んだ。
明里の手から、目に見えない「何か」が放たれた。
少女が腕を交差させ、指を曲げてその「何か」の受け止めた。
ブレスレットが青白い光を放った。
明里の手から放たれた力と三つ編みの少女の力が拮抗し、空間が歪んだ。
力が衝突した点から沸いた光に目がくらむ。
明里の力やや上回っていたのか、少女がはじき飛ばされた。
でんでろは少女のもとへ駆け寄った。
「あの人、「想い」に取り憑かれてる!」
でんでろの腕を借りて立ち上がろうとしながら、少女はそう言った。
少女を抱き起こそうとしたでんでろを見た明里の表情が、
やや人間らしさを取り戻し、そして悲しげに引きつった。
「やっぱり私の「想い」は受け止めてくれないんだね。でんでろくんは」
明里の言葉に、でんでろは動揺した。
「あの人は明里さんだけど、明里さんじゃない!」
少女は起きあがって、明里に近づき、でんでろと距離を取った。
明里は立てつづけに見えない衝撃波を、三つ編みの少女に叩き込んだ
少女は腕を交差させて耐えるが一歩も動くことができない。
衝突するたびに力が散乱し、周囲の墓石が砕け散る。
「番人たるお前を殺せば、この世界を完結させることができる!」
下からの風に煽られるように明里の髪が浮いた。
でんでろは、目の前で繰り広げられる信じられない光景に、ただ何もできずにいた。
だが、三つ編みの少女が押されているのを見て、何かしなければならないと思った。
少女は、今なら助けられると言った。
正気を取り戻すことができる方法があるのだろう。でもどうやって?
明里の注意は少女に向いている。でんでろが明里に組み付いた。
「澄香!今だ!」
顔を布で隠した少女は、でんでろの言葉に頷き、手で印を組み、それを明里のほうへ向けた。
ブレスレットがまた青白く光り、そこから走った一条の光が明里とでんでろを包んだ。
視界が真っ白になり、でんでろは意識を失った。
意識を失う直前、あの子はやっぱり澄香だったんだ、と思った。

意識を失っていたのは、ほんの数秒のことだったようだ。
目を覚ますとそばに明里が倒れていた。
悪友の3人は、明里の斜め後ろで、墓地には行ってきたふたりからは死角になる位置に倒れていた。
三つ編みの少女はすぐ傍に立っていた。
「目が覚めたら、みんな正気なはずだから」
「うん…」
「みんなが意識を取り戻したら、すぐ帰った方がいいよ。今なら元の世界に帰れる」
「ありがとう…君は…」
少女は顔を覆っていた布を外した。少女はやはり、妹の澄香だった。
「澄香…本当に澄香なのかい?」
「お兄ちゃん…でんでろお兄ちゃん…私はここに残らなくちゃいけないの」
澄香は涙を流していた。
澄香が顔を隠して自分の前にあらわれた意味を考えたら、
ここに残るという澄香の返答も予想できた。だがそれを受け入れるわけにはいかない。
「どうして!一緒に帰ろう!」
「もう私は…死んだ人間だから…」
「そんなことはない!こうして生きて!」
澄香は泣いていて、自分が必死に説得する。二年前と同じ光景だが、
ひとつ違うことがある。今度は離さない。たったひとりの大切な妹を、今度は離さない。
「ここでは年をとらないの…だから…現実の世界には…だってもう二年も経ったんだもの
 それに私はここの番人だもの、いつ誰かが迷い込むかわからない」
「ちがうよ…」
「え?」
「この世界は澄香が…いや俺達が作り出したんだ」
「そんな…嘘…」
「そうなんだ。俺達は…俺が澄香の時間を止めてしまった!
 離れたくなかった!くだらない世間体を気にして無理矢理気持ちを押し殺したんだ!
 それがこれなんだ…こんな世界は存在していないんだ!」
「お兄ちゃん…」
「…澄香」

──光に包まれ。

「でんでろくん!起きなさいよ」
「明里さん?」
目を開けると、腕組みをして顔をしかめた明里がでんでろの顔を覗き込んでいる。
体を起こすと、そこは最近ようやく慣れてきた大学の一画の広い庭だった。
「もう!こんなところで寝るなんて…でんでろくんは〜、講義に遅れるよ」
「うん…ありがとう」
講義まで、やることもなく、木陰で一休みのつもりが、
いつしか寝てしまったようだ。それを明里が起こしに来てくれたらしい。
怒っているような表情だが目が笑っている。あの村で「想い」に取り憑かれた明里ではない。
あの村での出来事は、明里と悪友どもの中では、
ただの馬鹿騒ぎをした小旅行ということになったようだ。
だが、でんでろはすべて覚えている。
そして澄香とは───。

今日の講義を最後に、でんでろは明日から大学生として初めての夏休みを迎えようとしていた。
去年まで、夏休みなど無いかのごとく受験勉強に明け暮れていた身としては
3ヶ月間もある大学の夏休みは長すぎる。特に予定もないまま休みに突入しようとしていた。
「でんでろくん…」
「はい?」
「よかったら…今度付き合ってくれないかな」
「いつ?」
「え?8月10日だけど?」
「ごめん…その日は田舎に帰らなきゃ…待ってる人がいるんだ」
「そっか…残念」
すこし寂しそうな明里に、でんでろはゴメンと心の中で手を合わせた。
「でもね!この恩はいつか返してしてもらうんだからね」
「うわ!高く付きそう…」
「ふふふ…じゃあね、でんでろくん。楽しい夏を」
明里はそう言って講堂に入った。

8月10日、でんでろは田舎に帰った。飛行機が空港に到着したのは午後6時。
飛行機とは時間に正確な乗り物だと思っていたが、
30分や1時間は遅れることがむしろ多いのだと、都会へ来て知った。
実家の両親に顔も見せず、でんでろはあの場所に向かった。
2年前、澄香と約束した、あの待ち合わせ場所へ。

夏祭りはもう始まっていた。
「やばい…遅れたか…!?」
焦るでんでろ。不意に後ろから声がかかる。
「遅いぞ!おにいちゃん…」

〜完〜


画像特典

すべてのきっかけ

岡山明里さん

暇に任せて慣れない物を書いてしまいました。ひー恥ずかしい!
原作:はとよしのさん イラスト:はとよしのさん 脚色:でんでろ音波虫
でお届けしました。素晴らしいキャラクターと機会をくださった
原作およびビジュアルのはとよしのさんに心からお礼申し上げます。
読者のみなさまの率直な感想をお待ちしております。

澄香ちゃんよりお前が死ね!     意外に才能あるよ