−序−

目の前の美しい景色にも慣れてしまい心を動かされる事は無くなってしまった。でんでろはその事に寂しさ感じつつ、そうなるまで生きてこられたことに気付き満足するのであった。

「もう三年か・・・」

そうつぶやいた目線の先には小柄な美しい娘が同じように景色を眺めていた。

まさかこんな事になるなんて、とあれ以来何度も浮かんだ言葉をまた心に出してしまった事に苦笑いを浮かべつつ、でんでろは二人をこの状況に追いこんだあの惨事のことを考えていた。

−それは何の変哲もないただの社員旅行で終わるはずだった。

でんでろの所属する課と、人事課の一部との合同での小規模な社員旅行で、2泊3日の、グアム行きにしては強行軍の旅だった。企業間の過剰競争で、ハワイやグアムなどの確実に客が呼べるツアーは現在、国内旅行よりも安くなってしまっている。グアム線はテロの心配も少なく、今ならこの奇妙な現象にあやかり格安で海外旅行ができる。

 旅行の一行にO嬢が含まれる事を喜びつつ、でんでろはそう考えていた。実際に旅行費の積み立てを見てみると、これが海外旅行かと驚くほどの値段である。これなら四国や大分の温泉でゆっくりする方が高くつく。

妙な時代になったと思いつつ自分のデスクに向かい、でんでろはスクリーンセーバーを解くために適当にマウスを小突いた。

 「でんでろ、旅行の時なに着ていく?」旅行で一緒になる同期の一人が聞いてきた。確かに社員旅行など始めてなので解らない。

「社員旅行なんてはじめてだからなあ、私服でいいだろ。まさかスーツ着てこいとは言われないだろうし。」

でんでろは、こういう時は手堅くカジュアル系でいくべきだと考えた。しかしこの男に一言目に常識を語る気など無い。でんでろの中のいたずら心が鎌首をもたげてきた。

でんでろは少し考えて言った。

「…アロハ着よう」この男、大変危険である。

「なんだって?」同期の男はうろたえた。

「アロハ着よう」

「冗談だろ?学生の時みたいなノリはヤバイって。それにグアムなのになんでアロハだよ!!」

「大丈夫だって。毎年すごい軽いノリでやってるらしいじゃん。よーし他の奴にも声掛けようアロハってボトムは何合わせればいいのかな着てこなかった奴罰ゲームね」

「勝手に話し進めんなよ!」

 結局アロハの着用は個人の判断に任せるという事になった。アロハ着用に反対するものも当然いたが、興味を示すものが以外と多く当日着てくるかどうかは男の勝負である。

 でんでろはアロハを含め旅行に必要なものを街で買い揃えにいった。デパートに行き紳士服売り場に行くがアロハシャツなど売っていない。洋服売り場をウロウロしているが見つからない。冬にアロハに割くスペースなど無いようだ。

「すいません。アロハシャツってどこにありますか?」店員に聞いてみると別の階のスポーツ衣料コーナーの近くにあると教えてくれた。

 そこには冬にしては豊富な種類のアロハシャツが置いてあった。でんでろはその中にある黒地に白と青の花が描かれたものと、近くにあったサングラスを適当にとって試着室に入った。

アロハを着てサングラスをかけてみる。とその異様さにでんでろは思わずひるんだ。シャツはぶかぶかな上、サングラスは顔に比べてレンズが大きすぎて不恰好だ。なんとなくバブル期にあぶく銭をつかんだ青年を連想させる。

「……」

シャツは一サイズ小さな物をとり、サングラスはもっとシャープなデザインのものを選びなおすとなかなか様になってきたが、それでも強烈な違和感があり落ち着かない。始めてスーツを着た時もこのような違和感を感じたが、今のはそれの比ではない。スーツは着慣れないと似合わないと良く言うが、この場合もそうだろう。ただでさえアロハを着こなすのは非常に難しいのだ。

「これ着てくのか…」でんでろは不安を覚えたが、普段着として着るわけではないし、第一これは勝負なのだ。

 でんでろはシャツとサングラスをレジに持っていった。

 その時ついでに書店に寄り、飛行機の中で読もうと買った本がその後でんでろとO嬢の命を救う事になるとはでんでろには予想できなかった。

 

 旅行当日、集合場所のバス乗り場に集まった同期の間には奇妙な緊張感があった。その緊張の中心にいるのは間違い無くでんでろであった。皆が皆お互いの腹のうちをさぐりあっている。

 バスが走り出して暖房が効いてきてからも上着を取るものはいなかった。皆いつ勝負にでるか牽制しあっている。そんなでんでろ達のただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、O嬢がでんでろに話し掛けた。

「皆どうしたの?何かあったの?上着も取らないし」

O嬢に後ろの席から突然話しかけられたせいででんでろは少しうろたえた。だが既に始まっている勝負の緊張の前にそんな動揺など些細な事だ。

「大丈夫、大丈夫。あとになったらわかるって」

 でんでろはせっかくだからO嬢と話をして距離を少しでも近くしようと思い、なにか世間話をしようと考えたがこんな時に限って思いつくのは下ネタばかりである。ニュースで話題の事件など無難な話をして時間をつぶした。

 「横に乗る人誰か決まってるの?」手続きが終わり搭乗口に向かう途中、O嬢が聞いてきた。

「いや、決まってない。一緒に乗る?」ジャブにはストレートで返すのがでんでろの流儀である。

「うん、じゃあそうしよう」O嬢は嬉しそうに笑った。

予想外の返事にでんでろは面食ったが、タナボタ的幸運を素直に喜ぶ事にした。

しかしそうなると座席に座るまでなんだか間が持たない。話も途切れがちなところででんでろは飛行機の座席はほとんどの航空会社で指定席であることに気付いた。

「ねえ、席交換してもらわないと。どうする?」O嬢が先に聞いてきた。どうやら気付いたようである。

「そうだなあ、ちょっとチケット見せて」でんでろはそういうとO嬢の手からチケットをとった。見てみると二人の座席番号は近い。

「向こうについてから席を替わってもらおう。」でんでろはそういうとO嬢にチケットを返した。

 座席は三つ隣りだった。

O嬢のとなりに座っている同期に席を替わってもらったが、その顔を見てでんでろは自分が勝負の真っ最中である事を思い出した。

でんでろは体から血の気が引いていくのが解った。これからO嬢の前でなんの脈絡も無くアロハにならなければならないのである。でんでろは今更ながら自分のおろかさに戦慄した。

しかしもう勝負は始まってしまっている。周りの同期もでんでろが口火をきると信じているのであろう、さっきから上着をとらずにでんでろをちらちら見ている。

この勝負はアロハを着てきたものは男として勝ちである。しかし、それが少数派であった場合、社会的に負けとなるのだ。

でんでろは観念し、目で同期の連中に合図をした。皆も目で返答をしてきた。

ついにでんでろが立ちあがり、コートを脱ぎ始めた。でんでろに続き、一斉に同期の男達も立ちあがった。そしてコートとジャケットを脱いだ。

 でんでろがアロハ姿になると、周りからどよめきが起こった。視界に次々とアロハが現れる。

ボタンがココナッツでできた本格的なアロハを着たもの、着古して体に馴染んだアロハを着たもの、ドンキホーテで間に合わせたアロハを着たもの、アロハの種類はさまざまだが本人にとってそれはまさに世界に一つだけのアロハであった。

 気付けば同期の全員がアロハ姿だった。

いぶかしげなどよめきは、やがて男達のアロハと歓声にかき消された。思えば、入社以来これほどの連帯感を抱いたのは初めてである。もう周りの視線など気にならない。アロハ達はお互いを称えあった。

「でんでろさんの言ってたのってこれだったの?」O嬢が笑いをこらえながら聞いてきた。

「えーっと、うん。着てこなかったヤツは負けって感じでね」

「うそでしょ?誰が考えたの?」

「俺だけど…」

それを聞くとO嬢は火がついたように笑い出した。

気付いたら発着の時刻になるまでずっと話し込んでいた。リラックスすると自然に話のネタがわいてくるものである。

発着を告げるアナウンスが聞こえて間もなく、乗務員が点検にやってきた。

「離陸の際は危険ですのでベルトをお締め…!!」乗務員はでんでろを中心としたアロハ達に気付き、一瞬ひるんだようだがすぐに離陸前の仕事を続けた。

 少し肌寒いこともあり、でんでろはアロハの上にジャケットを着た。周りの同期も同じ考えのようだ。

 無事離陸し、話のネタが尽きた頃でんでろは新聞でも読もうと思って近くにいた乗務員を呼んだ。

「すいません、看護婦さん」

数日前に病院に行った時、診察室で長い間待たされた感じが飛行機の座席に長時間座ったものと似ていたためであろうか。でんでろは乗務員と看護婦を間違えてしまい、それを聞いた周囲の一同全員が大爆笑した。

「はっ、はい」乗務員は驚いたようにふりかえり返事をした乗務員も必死で笑いをこらえている。

「乗務員さん」と、でんでろは少し大きな声で言い直した。

「新聞をお願いします」

現在ほぼすべての航空会社では、性差別的なニュアンスを含むという事でスチュワーデスという名称を使っていない。でんでろはあえて乗務員という言葉を使ったのだった。

周囲の者はでんでろを冷やかしながらも、雰囲気がより和んだ事を好意的に思っているようだ。

「今のって狙って言ったんですか?」O嬢が聞いてきた。

「いや、ほんとに間違った」

「でんでろさんって天然なんですか?」

天然なんですか?という質問は矛盾を抱えた質問である。天然です、と答えたら天然ではないと言われるし、天然じゃない、と答えたら天然だといわれる。

本物の天然が天然だと答える場合もありえるんじゃないのか?と思いながらもでんでろは適当に「いや、養殖だよ」と答えておいた。

しばらくして二人とも映画を見たが、O嬢は途中で眠ってしまった。でんでろはアロハのついでに買った本を取り出し、しばらく読みふけった。何か飲もうと思ったが、さっきO嬢に勧められてだいぶ菓子を食べたし、到着前に機内食が出るはずなのでやめておいた。

でんでろが飛行機の窓越しに見える景色を眺めなていると、ドン!!という大きな衝撃音がして、その後激しく空気が流れ始めた。それが機体の破損を示している事に気付くまで、でんでろにはほんの少し時間が必要だった。気付いたのは、目の前に落ちてきた酸素マスクと、乗客の「減圧だ!」の叫び声のあとである。

反射的にマスクをつかみ、口に当てた後はただ恐怖に耐える以外に出来る事は無く、大きな衝撃を最後に憶えていることは無かった。

 

気付いた時、でんでろは白い砂浜にうつぶせに倒れていた。周囲は日が落ちてきたせいで暗くなってきている。自分がどういう状況にいるのかわからず、しばらくはただぼう然とするしかなかった。

どうやら何らかの原因で飛行機が墜落し、奇跡的に助かったようであるという事だけはわかる。今のこの状況が現実であると認めただけでもたいした精神力である。

しかし、ここがどのあたりなのか、他に生存者がいるのか、救助はいつ来るのか、ということはまるでわからない。ともかく、その時の精神状態で考えられる事はせいぜいそのくらいであった。

今何をしていいかもわからずしばらく途方にくれていると、遠く水平線に沈もうとする夕日が目に入った。その染みるような真っ赤な夕日はでんでろがこれまでに見た景色の中で最も美しいものだった。

辺りに人家がある様子もなく、暗い中あても無く動き回るのは危険だと思い、散々眠ったにもかかわらずでんでろはまた眠りについた。

 

 

                 つづく