『上を向いて、歩こう』
「好きです」 僕がそう言うと、彼女は「えっ」っと言って。少し驚いたように僕の顔をまじまじと見つめていた。 なんと言って良いのかわからない。と目は言っている。少なくとも、そこに喜びや嬉しさと言ったものは無く。 ただ、本当に驚き言葉が出ない。という感じだった。 僕が。彼女、O嬢に初めて会ったのは、勤めている会社の面接試験を受けたときだった。彼女は僕より一年早く入社した先輩で。受付として、入社希望者を相手に事務的な対応をしていた。 書類をたずさえ、会社のあるビルに入ったとき。彼女はいた。 その時は、なんとも思わなかった。「美人だな」と、それくらいなものだった。当時、面接試験に受かるかどうかが気がかりで。彼女に余計な気を回す余裕は無かった。 時が経ち、入社が確定したとの採用通知があった。それと同時期に、一本の電話があった。 電話を取れば、どこかで聞いたことのある柔らかな女性の声。あのO嬢からだった。 電話の内容は、手違いで違う書類を送ってしまったからまた送ります、というものだった。 確かに、封の中には全然違う書類が入っていた。中途採用者宛の書類だった。僕は新卒なので、新規採用でなければいけない。 「本当に、申し訳ありませんでした」 真剣に、僕に謝る彼女。 「いいですよ。気にしないでください」 「すいませんでした。本当に。ありがとうございます」 入社が確定したのがわかったのだから、怒ることも無かったし。それよりも、彼女の真面目すぎるほどの真剣な謝りようが、胸にくすぐったかった。 それからさらに時が経ち、入社して、社員として働く日々が始まった。会社というものは学校とはちがうもので、今までのやり方は一切通用しない。生産性のある仕事をしなければならない。 どんなに真面目に働こうが、そこに生産性がなければ意味が無い。努力だけが認められるのは、学生のうちだけだと、痛感する毎日が続いた。 「しんどいな……」 正直、この会社でやっていけるのか、と不安が募った。 「これから、どうなるのかなあ……」 昼休み。会社の食堂でチキンカツを食べながらこれからのことを考えていたときのことだった。 「ここ、空いてますか?」 と、言う声。 「はい、空いてますよ」 と、相手を見れば。O嬢だった。 手には自販機で買ったと思しきコーヒーカップ一つ。 「ありがとうございます」 と、隣に座る彼女。なんでまた、僕の隣に、と思った。他にも席は空いているからだ。 僕と彼女が話したのは、入社試験の時の少しの間だけだけだ。なのになんでまた僕の隣に、と思って、席についた彼女を、ちらっと横目で見た。 ついでに、なぜか胸がくすぐったかった。 「あのー……」 そしたら、突然彼女は話しかけてきた。 「でんでろさん、お仕事は大変ですか?」 その言葉に、何でそんなこと聞くの? と思いながらも。 「はぁ、まあ……」 と、応えた。 「そうですか。いつも大変ですね。この間、叱られてましたね」 「ええ、まあ。ちょっとドジ踏んじゃって……」 頭の中は「?」マークで一杯だった。接点の無きに等しい僕に、彼女は何が言いたいのだろうか? 目をきょろきょろさせながら、少しの間何も言わなかった彼女だが、僕がチキンカツを箸でつついているのを見て。なんだか意を決するように、口を開いた。 「実は、この間のことは……」 「はい……」 この間、上司に叱られてたときのことだろう。書類の不備があり、受け持ってた僕はその手違いを指摘されたのだ。 でも、それが何の関係があるんだろうか。固唾(かたず)を飲んで続きを待てば。 「あれは、私のせいでもあるんです」 「え?」 「書類に不備がありましたよね。でもそれは、本当なら私がしなきゃいけない仕事だったんですが、前の仕事でも書類の不備があり、その対応に追われていたんです。でんでろさんは、そのとばっちりを受けてしまった形になっちゃったのを後で聞いて……、本当にごめんなさい」 確かに、あれは本当なら僕の受け持ちじゃなくて他の誰かのだった。それが急に僕に回ってきたので、焦りが出てしまったのだ。 でも、ミスをしたのは僕だし。別にそれに対して何かを思うことは無かった。が、彼女はそうもいかなかったようだった。 しかし、まさか彼女の仕事を回されてたとは思いもしなかった。それよりも、なんだか書類の不備の多いOLさんだと思った。 「気にしないでください。それでもちゃんと仕事をしなきゃいけないのに、ミスしちゃった僕がいけないんですから。O嬢さんは悪くありませんよ」 ちょっと悲しそうな彼女の顔を見ていて、ちょっと気の毒になってきた。 「ありがとうございます。でんでろさんは、優しいんですね」 「いや、まあ……」 優しいんですね、と言う言葉に、ガラにも無く照れてしまって。チキンカツをつつく箸に力がこもる。すると、はたと思いついたように。 「そうだ。お詫びにおごらせてもらえませんか? 美味しいところ知ってますから」 と、言う。彼女の突然の言葉。 な、なぬ? って感じで、僕はその言葉が信じられなかった。お詫びにおごらせてほしい、美味しいところをしっている。とな。 「通知の時といい、二度も迷惑かけちゃって……」 微笑む彼女。その微笑みは物悲しそうな、寂しそうな微笑だった。面接試験のとき「美人だな」と思った綺麗な顔が、そんな微笑みを僕に向けている。 それでいて。優しそうな、そこはかとなく、大人の女性の抱擁間を感じた時。胸をくすぐる何かが、弾け飛んだようだった。 「は、はい。それでは、お言葉に甘えて……」 お言葉どころか、彼女そのものに甘えたい気持ち。確かに、感じた。 それから、彼女とは何度か話す機会が増えてきた。一緒に遊びに行くことは、あの時食事をおごってもらって以来なかったけど。会社で一番気が合う人がO嬢だったのは確かだった。 でも、僕としては、気が合う人で済ませたくは無かった。 そのためには、まず仕事が出来る男にならなくては。そう思い、必死こいて仕事した。頼まれもしないのに、残業もこなした。 最初は呆れ顔だった同僚や上司が、今は、僕を全面的に信頼してくれて。いつしか、僕は期待の若手社員の一人として数えられるようになっていた。 僕が仕事に励めば、みんな喜んでくれた。なにより、彼女の優しい笑顔が見られたことが嬉しかった。 「でんでろさんは頑張り屋さんですね」 会うたびに、優しさと共に送られる言葉。彼女の優しさに応えようとする僕。 共に交わす笑顔。 その笑顔の中にある、僕の気持ち。 一人前の男になって、彼女に告白する。彼女に甘えたい気持ちもあった、けど、それだけじゃダメだ。むしろ、頼れる男にならないと。そう思いながら、自分を追い込んだときもあった。 動機はどうあれ、仕事が出来るようになって、少しずつだけど。将来の展望というものも、かすかに見え始めていた。 そして、ついに時は来たれり、だった。 告白されて、彼女は押し黙ったままだった。 会社帰り、立ち寄ろうとした書店の前で、偶然にも同じく会社帰りのO嬢とばったり出くわしたのだった。 「あら、でんでろさん。今日は残業じゃないんですね」 と、声を掛けられ。 「はい。今日は定時でしたので」 と、応えた直後。 今だ。と、心の中にある何かに背中を押された。 それから、しばしの沈黙。 行き交う人の姿も、街の喧騒も、まるで何も無いかのように、感じられなかった。 ただ、O嬢の優しそうな顔が、戸惑いに包まれている。 それが、胸を締め付ける。あの、くすぐられるような感じは無かった。 そんな僕に、彼女は言った。 「ごめんなさい」 と、言った。 それが何を意味するのか、理解する前に、何かが崩れ落ちるようだった。 どうして? 僕は思った。 どうして、また謝られなきゃいけないんだ、と思った。 それは、彼女が僕に謝らなければいけないことを、僕がしてしまったからだった。 「あなたの気持ちは、うすうす感じてました。でも、それは私の思い上がりだと、思っていました。いいえ、思いたかった……」 顔を下げ、ため息をつく。そのため息は、とても白かった。 「私には、恋人がいるの……」 言い終え、頭を下げて。「ごめんなさい」とまた言って、そのまま前に小走りに僕の横を駆け抜けてゆく。。 振り返り、後姿を見る勇気も起きなかった。ただ、彼女の気配が無くなってゆくのだけが、わかった。 残されたものは、かすかなコロンの香り。 それも、遠ざかってゆく。 いつの間にか、僕の胸からも何かが遠ざかっていってしまっていて。妙に胸元が涼しかった。 「しゃーないなあ……」 顔を上げ、空を見上げる。星空がきれいだった。 「まあ、長い人生。そーゆーこともあるさ。今夜は一杯ひっかけるとするかー」 と、欲しい本があったのも忘れて歩き出す。上を向いたまま。 下は向けなかった。下手に向けば、余計なものが零れ落ちそうだったから。 上を向いて、歩こう。 そういえば、そんな歌があった。僕は我知らず、その歌を口ずさんでいた。 星空の星たちは、その歌にあわせるかのように、きらきらと輝き。僕はそれを、ぼやけた視界の中で見上げていた。
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