キミは陽射しで、ボクの雨※ ジーコは死に掛けていた。 一人暮らしの部屋は静まり返っている。ただ高熱でオーバーヒートした自分の脳みそが起こすノイズのような耳鳴りだけが、低く唸っている。すっと唸っている。ずっと唸り続けている。 ずっと一定の音程で。 いかん、マジで死ぬのか。 ジーコは思った。 思ったがそれに対抗する恐怖心や気力さえも放熱されてもうどうでも良い。 以前に死に掛けたときに見た、屋久島の深い霧と鬱蒼とした樹林が見えた。 バターのように意志や思考は溶けて流れて、記憶や無意識や幻覚だけがモノクロでよみがえり続ける。 両親の顔が浮かんだ。 兄弟たちの顔が浮かんだ。 親戚たちの、友人たちの顔が浮かんだ。ハウステンボスでカップルを火炎放射器を持って追い回してる自分が見えた。今まで見たAVの総本数を計算していた。一本平均90分としていったい俺は何日何週間何ヶ月AVを見ただろうと考えてハハハと笑った。 正確にはハハハと力なく息を吐いた。 いや、マジで死ぬなこりゃ。 ジーコは他人を観察するように己を達観した。 にわかに騒がしくなった。 川の向こうでジャズフェスが行われている。 トランペットがハイトーンを響かす。ピアノがスイングする。ベースがオーディエンスを揺らす。 ジョン・コルトレーンがいた。マイルズ・デイヴィスがいた。セロニアスモンクが、ジャコ・パストリアスが、エリック・ドルフィーが、ジャズジャイアントたちがジャムセッションを繰り広げていた。みんな楽しそうにグルーヴに跳ねていた。 いいじゃないか、もう。 ジーコは川に足を踏み入れた。 いいじゃないか。もう別に。 後ろを振り向くと、遺してゆく者たちが見えた。 家族がいた。友人がいた。夢もあった。 想い女の姿があった。 まだ。 伝えていない言葉があった。 だが、いい。 遺していこう。 無念だ。 無念だがそれが俺が生きた証だろう。遺していこう。未練も遺していこう。全てを遺していこう。 川の中ほどで、最後にもう一度だけ振り返った。想い女の面影をもう一度だけ、彼女の柔らかい微笑だけ、その面影だけ確かめた。縛られた女の苦悶の表情を確かめた。 そう、縛られた女の…… ……は? 誰でしょうかあなた? 縛られた……SM?…… SM本。 中国からの留学生、Tさんがくれた本。 22冊。 ……………… だめだ!あれは遺して行けん!! 無念も遺そう、未練も、後悔も遺そう。だがあれを遺しては行けぬ! 「あの子、こんなにもSMが好きだったのね、お父さん。私、私あの子のこと何にも……」 涙ぐむ母親。 「しょうがないさ……せめて一緒にお棺に入れてあげよう」 母の肩を抱く父親。 いりません! 衰弱し枯れ果てたはずの力が、魂の深奥から沸き上がった。 まだ……まだ俺は死ねん!! ジーコは回れ右をすると、水しぶきを上げながら三途の川をダッシュで引き返した。 そして汗まみれのシャツとシーツの中、ジーコは目を覚ました。 ※ 一度は死を覚悟したことが嘘のようにジーコは回復した。 回復しすぎて会社を休む口実が無くなるほど回復した。 「イツビナハ〜デ〜ズナ〜イ」 ああ全くハードな毎日だけど愛しいキミのためにがんばる僕なのさ、と言う歌詞のビートルズソングを口ずさみながらジーコは会社の階段を下りていた。 ちぇ、足りない。全く足りない。 「愛しいキミ」ってのが全く足りない。 せめてあの女の姿ぐらい見かければやる気も出るっつのに。 「あ、ジーコ君」 その時、ジーコは自分がニュータイプだと、コーディネーターだと確信した。 「あ……Oさん」 ……なんて言うかね!こう、なんて言うかね!顔見ただけで声聞くだけで体中の細胞のミトコンドリアが大活躍してATPをガシガシ生産するわ脳内ホルモンがドハドハーって分泌されて最高にハイって感じだぜ!になると言うかね…… などとはおくびにも出さずジーコは謹直な態度を崩さなかった。と言うより崩せなかった。 階段を軽快に上ってくるO嬢。 明るく活発でありながら、楚々としてしとやか。 ……かわいい…… いつもながらかわいい。 総務の、いや朝立商事の、と言うかむしろ日本の、アジアの華と言っても過言ではないだろう……いや、やっぱりそこまで言ったら過言か? 「風邪引いてたんだってジーコ君?もう大丈夫なの?」 過言じゃない! 気遣わしそうに下からO嬢が自分の顔を覗き込まれたジーコは心中断言した。 世界遺産決定。 何と言うか、その柳眉が世界遺産決定。 むしろ、その明るく澄んだ眼差しが世界遺産決定。 と言うか、その黒くつぶらな瞳が世界遺産決定。 さらには、その控えめの鼻梁が世界遺産決定。 付け加えて、その可憐な口元が世界遺産決定。 言ってしまえば、その流れるような髪が世界遺産決定。 もう何もかもが世界遺産決定。 「ジーコ君?どうしたの?まだどこか具合が悪いの?」 心配そうに僅かにしかめられた表情が世界遺産決定……とか言ってないで。 「いや!大丈夫です。も、全っ然大丈夫です!」 そう、よかった…… と眉を開いたO嬢の笑顔……「小さい」と言うより「ちっちゃい」と言いたくなるような小作りでキュートな容姿…… ジーコは感涙に思わず咽びそうになった。 頭のてっぺんのつむじが見えるんだよう…… ああ。 小脇に抱えて走ってみたい。 脇を抱え上げてぐるんぐるんジャイアントスイングしたい。 登山用バッグに詰め込んでみたい。 んでもって部屋に持ち帰ってみたい。 そして猫耳とか付けてみたい。 アンニュイな口調で「ジーコ君おはようにゃあ」「一緒にお買い物に行きたいにゃあ……」とか言わせたい…… 「それじゃあまたね、ジーコ君」 「あ、ではまたにゃ」 「え?」 「え?」 思わずジーコが口走った言葉に、ジーコとO嬢は顔を合わせた。 「な、何?今のは?」 「い……」 必死でジーコは言い訳を考えた。 「い…田舎の方言です……」 苦しい。 だがO嬢にはうけた。可憐な口元をほころばせてしとやかにくすくす笑う。 「やだジーコくんったら…」 「ほ、本当ですよ……嘘ですけど」 O嬢はまた笑った。 「あはは……じゃあジーコ君」 ――またにゃあ。 O嬢がいたずらっぽく笑って言った台詞が、ジーコの胸をグレネードランチャーでぶち抜いた。ジーコはそのまま雲のように浮かび風に乗ってどっかに行きそうだったが、寸でのところでO嬢の抱えている書類の束に気付いた。 いかん! 大いにいかん!気の利かない男と思われてしまう! 「半分持ちますよ」 と言ってジーコはさりげなく三分の二を引き取った。 「あ、これ総務の書類なのに」 「構いませんよ、もう帰るところでしたし」 白鳥は水上を華麗に泳いでいても水面下では必死に水をこいでいる。実はいっぱいいっぱいのジーコも、必死にクールを装ってそう言った。 「え…と。じゃあお願いしてもいい?実はちょっと重かったんだ」 ……ポインツゲェェェェット! 照れ笑いするO嬢の顔を見て心の中でそう叫んだジーコだったが、許斐剛許斐剛……と謎の呪文を唱えCOOLな男を演じ続けた。ラジカセは叫ぶ。COOL!COOL! ※ 駅まで送りますよ駅まで送りますよ駅まで送りますよ駅まで送りますよ駅まで送りますよ駅まで送りますよ駅まで送りますよ駅まで送りますよ駅まで送りますよ駅まで…… 口の中でジーコは何度も繰り返しつづけた。 心拍数はMAXである。 「ありがとうジーコ君」 無事書類を届け終えたO嬢が総務課から出てくる。 本初子午線より東の此処では日の暮れ方が早い。空にはすでに紺が差している。 駅まで送る、と言ってもなんら不自然ではないはず! 「おかげで早く帰れるみたい」 ……駅まで送りますよ駅まで送りますよ駅まで送りますよえきまでおくりますよえ 「じゃあね」 「きまでおくりますよぇっ!」 突然謎の雄叫びを浴びせられてO嬢は動きを止めた。 「い、今のも御実家の方の言葉……ですか?」 戸惑うO嬢に、返ってジーコは腹が決まった。清水の舞台から紐無しバンジージャンプを決行。 「駅まで送りますよ、のアナグラムです」 「え…と」 心臓の音が聞こえた。 一秒経った。 心臓の音が聞こえた。 二秒経った。 心臓の音が聞こえた。 三秒経った。 心臓の音が…… ……もう逃げよう! 何もかも振り捨てて逃げ出して盗んだバイクで走り出しそして実家に帰ろう!そしてただ同然のみかんばっかり食って生きよう!いやフランス外人部隊に入って傭兵として何も語らぬまま戦場に生き戦場に死のう! ジーコがそう心に決め掛けた時、福音がO嬢の口からもれた。 「じゃあ着替えて来るからちょっと待っててもらえる?」 O嬢の少しはにかんだような笑顔だった。 ……ヴィヴァルディの「春」が聞こえる…… 「はい」 ジーコはがっつくながっつくな、と自らを抑え、何でもないように爽やかに笑って見せた。 ※ 「ジーコ君の実家は九州だっけ?」 「ええ」 「みんな『にゃ』とか言ってるの?」 「あっはっは。さっきのは軽い九州ジョークですよ」 ニヒルに笑ったがジーコは最早自分が何を喋ってるのか分かっていない。 「お…Oさんは関西の方だそうですね」 「あれ?言ったことあったっけ?」 いかん! ジーコは焦った。 CIAよろしくあらゆる情報網を使ってO嬢のことを調べてることがばれちまう! 「そ、その割には全然訛りがないですね!」 ジーコは強引に話題を変えた。O嬢は、そうかなあ、と首をかしげた。 よし、切り抜けた。 ジーコはひそかに吐息をついた。 「あ、でも」 O嬢が語りかけた。な、何だ?何か不審なところがあったか?!ジーコの焦りを他所にO嬢は続けた。 「ウチも実家に戻うたら、こないに標準語、使うたりせえへんよ?」 お国言葉を使ってみせたO嬢は、ちょっと照れたように笑った。ああ…… ああああああああああああ!! 関西弁万歳!阪神タイガース優勝おめでとう! 澄ました顔で爽やかに笑ってみせるジーコだが本当は、このギャップが、くぉーのギャップぐぁあ嗚呼と叫びたかった。叫ばなかったが。 「あれ?」 不意にO嬢が空を見上げた。 「どうしました?」 同じく空を見上げたジーコの鼻に、水滴が落ちた。 「雨?かな?」 「…みたいですね」 西風が強く吹き始め、灰色の雲が広がり始めていた。 「ちょっと急ごうか、ジーコ君」 ジーコとO嬢が足を速めると、途端に地面に雨の斑が出来始めた。 ※ 「ごめんね、ジーコ君…」 「いえ、何てことありませんよ」 二人が駅に飛び込んだ瞬間、季節外れの夕立が情け容赦なく豪雨と降り注ぎ始めた。 ……昼間暑かったしな。 しかし!Oさんと一緒に歩けた数百メートルに比べればこれから濡れて帰る道など鼻唄まじりのスキップで余裕だ!いやマジで! 「そういえばジーコ君、風邪引いたばかりだったね」 「大丈夫ですよ」 山男のタフさを漂わせてジーコは嘯いたが、O嬢は、だめだよ、と首を振った。 「また悪化させたら大変じゃない。雨足が弱まるまで、どっかで時間つぶそう?」 ……宝くじ買っとくか?ロトか?いや、万馬券に給料つぎ込んどく? ジーコは己の幸運に戦いた。いや、これは逆に人生の運を今使い果たしてるのかも…… ……それでもいい! ジーコは今、一世一代の局面を迎えたと直感した。 「じゃ、じゃ、じゃあそこのミスドと言うかにでもお入りなさることに特に異議は御座いませぬでしょうか?」 ジーコの人生経験から大きく逸脱した事態に、彼の日本語は破綻をきたした。 「え?ええ、お構いなく……」 O嬢も釣られてそう答えた。 「か、かたじけのう存じます」 来た……来た!今日は俺の日だ! ジーコは駅構内のドーナツ店へぎこちない歩みを進めた。 ※ ミスド・DE・デート。 ……甘酸っぺー! 中学高校大学と、私の人生暗かった。ファーストフード店でオンナノコとお食事なんて汚職並みに犯罪ものだった…… だがすべてはそう、今日、この日のためのスプリングボードだったのだ。 二人掛けの安っぽいテーブルに差し向かいでO嬢と座り、ジーコはこれが人生に於ける初めての女性と二人っきりの食事だと悟られぬよう、余裕棹棹、いや、余裕綽綽な大人の男を演じようとした。だが自律神経は彼の前頭葉の指令を裏切り、心臓を張り裂けんばかりに動悸させ、ストローを挿す指先さえも震わす。 ついに彼は席を立った。 「す、すいませんっ!ちょっと気を落ち着……いや、お手洗いに行ってまいります」 引きつった左顔を陰にするように右顔でにっこり笑い、ジーコはトイレのドアを開いた。中の鏡を覗き込む。 虎だ…お前は虎だ!何人たりとも今日の俺の邪魔はさせん! 強烈な自己暗示にジーコのラヴ・スピリットは全力で前へ駆動し始めた。 よし、OK! 堅固な意志とともにジーコは扉を開け放ち、O嬢が待つ席へと向かった。O嬢は背を向けて座り、携帯電話で話をしていた。 「……だから…そんなこと言われても…今の仕事、やりがいあるし…いやだよ、そんなの……」 二歩後ろでジーコは固まった。 お・友・達・と・お・電・話・か・な。 にしては何か雰囲気怪しいんですけど。 にしては何か声が湿っぽいんですけど。 全力駆動し始めたはずのスピリットがエンスト起こすような予感に見舞われた。 「ど、どうも失礼しました」 勇気の限りを振り絞り、ジーコは限りなく遠い二歩の距離を歩いた。 「あ」 O嬢の顔に狼狽が見られた。 「…うん、一人じゃないよ……どうしてそんなことまであなたに……そうだよ、男の人だよ」 そう言うとO嬢は、携帯の電源を、振り切るように切断した。 「ご、ゴメンね、知り合いから突然電話掛かってきちゃって……」 「ああいえ、僕こそお話の途中…」 「いや、大した話じゃなかったし。世間話だよ」 O嬢は笑ったが、いつもの柔らかな太陽のような笑顔には翳りが見えていた。 睫毛に。 露がついていた。 ジーコの脳裏に、ある不吉な言葉がよみがえった。それは同期懇親会でのこと。同じ新入社員のとある女子の一言だった。 Oさんには彼氏いるらしいよ…彼氏いるらしいよ…いるらしいよ…らし伊代…思惟よ…伊予…よ…… 「そうでつか」 口が渇いて「す」が唇に引っかかったが、幸か不幸かO嬢の耳にはそもそもジーコの言葉は入っていなかった。 あれー? 今日、ボクの日じゃないのかなー?アレー? じっと俯いてコーヒーを啜るO嬢を前にして、ジーコは食べたくもないドーナツを胃に送り込んだ。さっきまで緊張で震えていた指先が、なんなくストローをコーラのカップに突き刺す。気不味い沈黙が、霧のように降りて漂った。 まて。 不意にジーコの野生の本能があることに気付いた。 こ…… これはチャンスじゃないか?! 同期の女子社員の慰めの一言も思い出した。 (「彼氏の話はあんまりしたくなさそうだった。上手くいってないのかも…」) かも…賀茂…鴨…… イマ、オレノマエニハ、ミチガ、フタツアル。 虎だ……虎になれジーコ!今こそ野性のエナジーが旅☆エブリデーだ! まずは相談に乗る振りをして詳しく聞き込んだあと慰めの言葉をかけ優しい言葉で和ませといてその後相手を貶しそれからOさんの魅力を語りまくるのだ。 「ジーコ君はさ」 どうかしましたか?とジーコが声を掛ける0.2秒前に、俯いたまま、O嬢が口を開いた。 「もうだめだな、って思ったこと、ある?」 ……心臓の音が聞こえる。 ジーコは桜木花道の台詞を思い出した。これはチャンスなのか?それとも…… 「ありますよ」 つい先日、風邪を引いて死に掛けたときのことを思い出して、ジーコは淡々と喋った。 「どうだった?」 O嬢がすがるような眼差しでジーコを見た。 「だめじゃなかったっす。ちゃんと……事無きを得ました」 限りなく穏やかな気持ちで、ジーコは語りかけた。 「大丈夫でしたよ……終わってみれば、何とも」 「そっか……」 O嬢は俯いたまま応えた。それから空耳と紛うような小さな声で、有難う、と呟いた。 ※ 「あ、ジーコ君」 「……Oさん?」 昨日とは逆に階段を上るジーコは、下りてきたO嬢から声を掛けられた。いつもの明るくて、さわやかな風のような笑顔だった。 あのあと、ジーコが帰ってからどうなったかは知る由もない。だがO嬢の笑顔には、曇り一つない清々しさがあった。 キミはボクの陽射しで、そしてボクの慈雨さ。 彼女を見ていると、そんな歌が口をつきそうになる。 笑ってくれてるなら。 「昨日は…ごめんね、いろいろ」 恥ずかしがるO嬢にジーコはわざとしらばっくれて見せた。 「構いませんよ。ドーナツ代くらい」 自然と笑顔が出た。 O嬢はジーコの言葉の裏を察したけれど、敢えてそれに触れず「奢ってくれて有難う。今度は私が奢るね」と笑った。 「ははっ。じゃあ楽しみにしときます」 「あ、あんまり期待しないでね」 O嬢はそう言うと手を振って、階段を下りていった。 ああ俺は。 ジーコは胸のうちで呟いた。 傍で彼女に泣かれるより、手の届かないところで笑ってくれるほうが―― ずっといいんだなあ。 「……イツビナハ〜デ〜ズナ〜イ」 口ずさみながら、ジーコは仕事場へ階段を上っていった。 |