Heart of September

 

 俺には、いつも思うことがある。

俺の人生の大半は後悔と挫折で満たされていた。

残りの時間は、そこから立ち直るための・・・あるいは忘れるための・・・無駄な時間だったと、そう思う。

だけど、そう分かったところで、理解したところで、現状を変えられるわけじゃない。

これは俺の性で、俺自身で、俺の本質だからだ。

俺の、こんな自分自身でも嫌になるような俺の一面を変えてくれるのは、きっと自分自身ではなくて、他の誰かなんじゃないかと、そう思う。

 

 

 

 

 

「どっち行くのよ?そっちじゃないでしょ!」

「いや、こっちの方が近道なんだよ」

「へー、・・・・本当?」

「俺の家この辺だから。詳しいんだ」

「ふーん。・・・って、この辺ってことは学校すごく近くない?」

「まぁ、近いと言えば近いけど・・・。幼稚園と小学校のほうが近かったよ。下手に転ん

だら着いちゃうくらい」

「はは。何それ」

「ほんと、ほんと。部屋の窓から授業風景が見えるくらい近かったんだ」

「いいなぁ。わたしの家、小学校遠かったのよね・・・。今もだけど」

「・・・・・どこ住んでるの?」

「えっとね、ここから三十分くらいかな」

「遠いね」

「だから、学校が近い人羨ましいんだ」

「そんなこと言われてもね」

「むしろ怨念?」

「・・・・・・そこまで?」

「だって、もしあんたと私の登校時間が三十分違かったら、往復で考えて毎日一時間損してることになるのよ?一年間で365時間の差よ?」

「・・・・・・休みがあるから、そんなに差はつかないと思うけど」

「細かいことは気にしない!」

「・・・・・・・はぁ」

「それにしても、授業中に学校抜け出すのって結構、新鮮で悪くないわね」

「抜け出してきたわけじゃないけどね・・・」

「あぁ、もう!細かいな・・・。そりゃ許可もらって来てるけどね。私が言ってるのは精

神の問題よ!精神の!」

「・・・・・」

「・・・・・」

「・・・・それで?なに買うんだっけ?」

「・・・・ガムテープと、接着剤と、セロファン。あとダンボール貰って来いってさ」

「セロファン?」

「照明係が使うんだって言ってた」

「ああ、ライトの色変えるやつ」

「それ」

「・・・・・」

「あれ?あんた担当何?役者じゃないでしょ?」

「小道具だよ」

「ああ、なんか小道具っぽい」

「なんだよ、それ」

「だってそうなんだもん」

「・・・・・・・」

「えーと、私はね・・・」

「音響」

「え?なんだ。知ってたか」

「ま、一応」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・あんた、何で自分から買出し行こうなんて言い出したわけ?」

「え?」

「私はジャンケン負けたから仕方ないけど、普通嫌でしょ?買出しなんて」

「それは・・・・」

「それは?」

「君のことが・・・・・」

 

スーパーに、着いた。

 

「着いたね」

「・・・・・うん」

「今の話しの続きは帰りね」

「・・・・・そうだね」

 

 

 

もちろん、この話しの続きをすることなど二度となかった。

 

 

 

 

 

俺は独りベッドに腰掛け、寝ぼけた頭を起こそうと努力していた。

(今、何か夢を見ていたな・・・)

うまく思い出せないが・・・・・。

・・・今、何時だ?

カーテンの閉じきったこの部屋には、日の光さえ射し込みはしない。

そのことは皮肉にも俺の現状を暗示しているかのように思えた。

顔を両手で覆う。

(俺は自分から価値ある未来を閉ざしている・・・)

価値ある未来っての言うのは何だ?

あのまま、あの会社にいたら手に入っていた物か?

だとしたら俺は、二年も前にその“価値ある未来”ってやつを自分から投げ出してしまったことになる。

(それで今の俺がこれか)

俺は自嘲気味に笑った。

こんな俺が価値ある未来なんて手に入れられるわけが無い。

カーテンに手を伸ばそうかと思ったが、やめた。

開けたところで暗闇が広がっているだけかもしれないから。

(今朝寝たのが・・・6時半)

毎日、コンビニの夜勤のバイト。

それを終えれば泥のように眠るだけ。

そんな俺の非生産的な生活サイクルの一環として、こうして寝ぼけている俺が在った。

俺はカーテンに手を伸ばす代わりに、充電していた携帯を手に取った。

18時半。

丸々半日寝ていたことになる。

(・・・クソッ!)

俺は心の中で“何か”に対して毒づいた。

いいや、本当は分かっている。

こんな無意味な生活に甘んじている自分自身に対して俺は毒づいたのだ。

・・・・・・俺は、でんでろ。

今はわけあって、しがないフリーターをしている。

そんな男だ。

 

 

 

 

 

俺は近所のコインランドリーに来ていた。

そのまま一日を寝て過ごすことも考えたが、そんな無意味な一日だけは避けたかった。

まぁ、洗濯物にどれだけの価値があるのかは分からないが・・・。

コインランドリーの中は意外と広い。

こんな田舎の町では、どっかの土地を余らせている金持ちが、余興でこういったものを作ることがよくある。

それが自動米販売機だの、駐車場だの、あるいはパチンコ屋だとかの違いはあるかもしれないが、結局それはそいつの期待していた以上の成果を挙げて、またそいつを肥え太らす。

貧富の差ってのは、そうして広がっていくものだ。

・・・なぜ洗濯機を買わないかって?

俺は元から、こんな町には長くいるつもりは無かったし・・・あのアパートだって最初は

一ヶ月の契約だったんだ・・・それだけのために、洗濯機を買うのは経済的じゃない。

だが、アパートの契約は延び続けて、今月でちょうど二年になる。

このコインランドリーにだって、もう何度足を運んだことか。

偉そうなことを言ったが、結局俺もここの持ち主の餌でしかない。

俺が、無力だからだ・・・。

 

俺はコインランドリーの中の一番端に陣取った。

俺以外に誰も客はいないのだから、どこに座ろうと構わないのだが、真ん中にいるのは気が引けた。

生来、すみっこが好きな性質である。

・・・・学校の席替えで教室の端になるのが嬉しかったな。

そんな子供の頃のまま、俺は大人になったわけだ。

ここの洗濯機には4つ種類があって、それぞれ4キロ、6キロ、8キロと、それぞれ容量が増していく。

極め付きは中央に一台だけ置いてある12キロの回転式洗濯機だが、布団など大型の物を洗うための専用のもので、俺は使ったことがない。

この4つは、もちろん容量が増えるにつれて料金も増すのだが、12キロのものでも六百円とそれほど高いわけではない。

もっとも、ここの洗濯機は水洗いと乾燥が別々で、先ほど挙げた4種類の洗濯機の他に、巨大な乾燥機が備え付けてありそれを回すのにもお金がかかるのだ。

まぁ、どの洗濯機にしても洗剤が自動で出るので、洗剤を別に買う必要はない。

独り暮らしの者にしては助かると言えば助かることである。

それに洗濯機を持っていないのに、洗剤だけ購入しなければいけないってのは、正直言って癪に障る。

さて、どうするかな・・・。

俺は洗濯かごに乗せて持ってきた、自分の洗濯物を見下ろした。

一ヶ月の間、貯めに貯めた衣類は優に10キロを超えている。

・・・・一ヶ月も洗濯しないでよく平気だな、と我ながら思う。

俺も初めのうちは、まめにここに来ていたものだが、そのうち億劫になって、自分の着られる物を着尽くして、洗濯しなければ次に着るものが無いような状況にならなければ来なくなった。

俺は乾燥なんぞにお金をかけるのが嫌なのと、あの回転式の乾燥機は服を傷めやすいと評判だったから、大概家に持ち帰っては部屋の中で干している。

部屋の中でも窓を開けて3日もすれば、洗濯物はカラカラに乾く。

・・・・どうして外に干さないかと言うと、うちがベランダも無いボロアパートだからだ。

悩んだ末、結局俺は4キロ容量の洗濯機を使うことにした。

洗濯機の蓋を開けて中に衣服を投入し始める。

当然これ一つに全て入れられるわけはないが、無理やり押し込んで、かごの中身の半分くらいは洗濯機の中に消えた。

残りは隣の同型の洗濯機に入れる。

明らかに要領オーバーだが、入れてしまえばこっちのものだ。

壁に『洗濯物の詰め込みすぎは、洗濯不良、痛みの原因になります』なんて貼ってあるが、ま、見なかったことにしよう。

・・・そういえばこの洗濯機、シャワー機能が付いていたな。

シャワー機能と言うのは、水洗いを始める前に洗濯槽を三十秒間、洗浄する機能のことで、別段料金はかからない。

前に誰がどんな物を洗ったか分からないコインランドリーでは、こんな機能も必要となってくるわけだ。

本来なら硬貨を投入して、このシャワー機能を使った後に洗濯物を入れるのだが、俺は今、この機能のことを忘れていて、先に洗濯物を入れてしまった・・・。

まぁ、いいか。

俺は気にせずに二つの洗濯機にそれぞれ百円玉を二枚ずつ入れて、シャワーボタンを押し、

蓋を閉めた。

洗濯機の中ではシャワーの噴出す小気味いい音がしているが、それは洗濯物に当たっているだけで本来の役割を成していない。

35と残り時間がデジタル表示され、なんとか8時までには間に合うな、と俺は思った。

ここは8時までしか営業していないのだ。

なぜ、このコインランドリーはこんなにも早く閉まるか?

おそらくは、たちの悪い輩の溜まり場になることを恐れたのだろう。

深夜まで無人の、こんなスペースは社会から弾かれた彼らの絶好の居場所だ。

俺はそんなことを考えながら、部屋の隅に置かれた木の椅子に腰掛けた。

中央の机の上には古い週刊誌や、いくらかの漫画本が置かれているが、今はそんなもの読むような気分じゃない。

俺は深く息をして天井を見上げた。

最近はこうして天井を見上げることが増えた。

何を見るわけでもないが、ただうつむいていたくないだけだ。

最近、何もすることがないと、すぐに昔を思い出してしまう。

その思い出す過去っていうのは大概いいものなんかじゃなく、後悔と挫折に満ち溢れたものばかりだ。

だから、自然と憂鬱になりうつむいてしまう。

つまり、俺が天井を見上げてしまうのは、嫌なことを思い出したくないからか・・・。

根本的な解決になっていないな。

・・・・天井を見上げたところで、嫌なことを思い出さなくなるわけじゃない。

そして今、天井を見上げながら俺が思い出したのは、

やはり後悔と、挫折のことだった。

 

 

「でんでろ君?今、帰り?」

「あ、うん。・・・・一応ね」

「あたし、ほら。ゴミ出し。ジャンケン負けちゃってさ」

「・・・・・・」

「あたし、すっごいジャンケン弱いのよね・・・。あっ!でんでろ君また明日ね!」

「・・・片方持つよ」

「え?・・・・・でも焼却炉向こうだよ?」

「いいから」

「あ、ありがとう」

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

「あのさ」

「え?」

「ジャンケンはチョキが負けにくいって聞いたことがある」

「そうなんだ」

「・・・・・・・」

「でんでろ君、そういえばさっき六時間目からいなかったでしょ?あたし、てっきり帰ったんだと思ってたんだけど」

「・・・・さぼってたんだ。体育館で」

「体育館で?・・・授業で使ってなかったの?」

「ステージ裏に居たんだよ。あそこなら誰も来ない」

「へぇー。でんでろ君って時々、授業居なくなるけど、もしかしていつもそこにいるとか?」

「まぁ、ほかにも色々なとこにいるけど・・・・」

「たとえば?」

「格技場の裏とか、弓道場の横の木陰とか、屋上とか、かな」

「ふぅん。うちの学校、屋上なんて入れたっけ?」

「西棟の音楽室の横の階段のとこだけ、鍵が壊れてるんだ。実は」

「すごい。詳しいね。どうしてそんなこと知ってるの?」

「けっこう一年の頃とかから校舎内うろついてたから・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「でんでろ君って今みたいな話し、友達にするの?」

「え?」

「今の話し。でんでろ君の友達は知ってるの?」

「・・・・いや、人に話したのは初めてだよ」

「そっか」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「あのさ、俺・・・・」

「なぁに?」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「俺、実は・・・・・」

 

焼却炉に、着いた。

 

「でんでろ君って面白い人ね」

「・・・・・・・そうかな?」

「また今度、さっきみたいに話してくれる?」

「あ、うん。・・・・・もちろん」

「よかった。それじゃあ、またね。私、部室寄っていくから・・・・」

「・・・・・うん、さよなら」

 

 

・・・・すこし眠ってしまっていたようだ。

今更、高校生のころのことを夢で見るとは。

もう顔もはっきりとは思い出せない彼女とは、結局あれきり話すことはなかった。

忘れていたはずの十代のトラウマが何故今更になって蘇えるのか。

もう彼女に未練があるわけではない。

あれから別の恋もした。

つくづく今更だと思う。

そうだな、俺の人生は今更ってことが多すぎる。

後悔って言うのは取り返しの付かないものにするものだからだろう。

そして後から、あの時こうしておけばと“今更”ながら後悔する。

俺の性だ。

今からやって何とかなるものは、後悔じゃない。

諦めだ。

諦めるから後悔する。

あの高校生のとき、俺が彼女に打ち明けられていれば、結果はともかく後悔することは無かっただろう。

俺はあの時諦めてしまった。

・・・・・・・そうか。

俺の後悔だらけの人生は、すぐに諦めてしまう、この弱い心根から来ているのかもしれない。

ふと洗濯物を放り込んだ洗濯機を見てみると、残り時間は15分になっていた。

20分くらい寝ていたのか・・・。

そのとき俺は部屋の中にいるのが自分だけではないことに気がついた。

いつの間にかこちらとは真逆の隅に、白いノースリーブシャツを着た女が椅子に腰掛けていた。

ざっと10メートル近く離れたこの距離では、視力の悪い俺にはどんな顔をしているかまでは分からない。

いつもはコンタクトを入れているのだが、今は寝起きだし、コインランドリーに来るだけなので入れてこなかったのだ。

雑誌を読んでいるのか?

まあ、じろじろ見て気味悪がられるのも嫌なので、そこで視線を離した。

さっき眠っていたのも見られたのだろうか。

少し恥ずかしくなって、ちらりと彼女の方を見た。

髪の長い小柄な女だ。

こんなところに来るということは、彼女も一人暮らしか。

この辺りは大学も多いからひょっとすると女子大生かもしれないな、と俺は思った。

・・・・・・・・・・。

気のせいか?

彼女がこちらを見ている気がする。

しかも、ちらちら、とではない。

俺の顔をしっかりと、凝視しているように見える。

何なんだ?

彼女が見ているので俺も・・・はっきりと見えるわけではないが・・・視線を外すわけにはいかなくなった。

自慢じゃないが俺はこの辺りに知り合いはいない。

せいぜいバイト先のやつらぐらいだ。

そもそもアパートの隣人の顔すら知らない俺に、あんな歳の女の知り合いが居るわけが無い。

・・・・・・!!!

彼女が雑誌を置いて立ち上がった!

まずい。

何か彼女の気に触ることでもしたか?

いや、そんなことはないはずだ。

仮に彼女がこのコインランドリーの常連だとしても、会ったことはないと断言できる。

・・・・・彼女が近づいてくる!

俺はどうすればいいか分からず、ただ座ったままその女が来るのを待つしかなかった。

彼女が徐々に近づいてくるにつれて、その顔がはっきりしてきた。

思ったよりも彼女は歳が上のように見える。

俺と同じくらいか少し下か?

そして立ち上がったから分かったが、彼女は俺よりも背が低い。

だから若く見えたのかもしれない。

・・・・・・どこかで会ったような?

どこか見覚えのある顔をしたその女性は、ついに俺の目の前まで来て立ち止まった。

そして俺の顔を覗き込む。

俺は思わず仰け反って、彼女と距離を取った。

・・・・・・・・・・・・うん?

まさか・・・・?

この女性は・・・・・。

 

 

 

 

 

「でんでろ君?」

 

 

「・・・・・Oさん?」

背の低い、白いノースリーブシャツのその女性は、驚いた顔をして

そして、笑った。

 

 

俺の、最大の後悔がそこに立っていた。

 

 

 

 

 

「ホントびっくりしたわ。こんなところで、でんでろ君に会うなんて」

彼女は笑いながら言った。

「よく似てるなって思ってたら、ほんとに君なんだもん。驚いたわ」

「俺もだよ」

彼女は二年前、最後に見たときと何も変わっていなかった。

俺と彼女。

二人の関係を一言で言い表すなら“会社の元同僚”。

そう、俺が二年前にやめたあの会社に、彼女は勤めていた。

勤めていた・・・?

「・・・Oさん、この辺に住んでたの?ここからだと朝立商事までけっこうかかるんじゃないかな?」

横浜にほど近い朝立商事・・・俺が勤めていた会社だ・・・まではここからざっと一時間はかかる。

昔、会社ビルから電車ですぐのところにアパートを借りていると彼女は言っていたのに。

「・・・・私、朝立商事辞めたのよ。でんでろ君が辞めてから、しばらくしてね」

「えっ?」

「今は叔母のところでお世話になっているの。小さな雑貨店をしているんだけど」

そして彼女はその店の名前を口にした。

だが、俺にはその名に聞き覚えはなかった。

この辺ということは近いのだろうが、元々俺自身の行動半径が狭すぎる。

「今、洗濯機が壊れちゃって・・・。それでここに来たの」

と、彼女は何気なく聞いてきた。

「でんでろ君は?今、何してるの?」

・・・・・・・・。

嫌なことを聞くな・・・・。

だが嘘をついても仕方ないので俺は正直に答えることにした。

「フリーター・・・・だよ」

彼女のリアクションが気になったが、彼女は特に反応を示さなかった。

「本当はあそこ辞めてから再就職しようと考えたんだけどね・・・。それでここに部屋借りて仕事、探してるんだけど、まだコンビニのアルバイトのままさ」

俺は自嘲的に笑って、言った。

・・・・・・・本当は一年以上前から、就職活動はしていないが。

でも、それを言うのは躊躇われた。

正直に言おうと思ったのに、やはりどこかで見栄を張ってしまう。

「・・・・・でんでろ君」

「ん?」

彼女の雰囲気が急に変わった。

「どうして突然、朝立商事を辞めたの?」

彼女はニコニコ笑っていた先ほどまでとは打って変わって、その表情に影を覗かせている。

「私、本当に驚いたわ。だって、でんでろ君っていつも楽しそうで、頑張っていて、凄い人だなってそう思ってたの。入社してからすぐって、仕事についていけなかったり、職場の雰囲気に合わなかったりする人とかが辞めちゃうこともあるけど、でんでろ君は絶対大丈夫って思っていたのよ」

彼女は俺の顔を見ずに、悲しそうに微笑んで続けた。

「私が勝手にそう思っていただけなの?本当はでんでろ君にも何か辛い事があったり、仕事のこと嫌だなって思うこと、あったのかな?」

違う。

たしかに仕事や職場について不満はあったけど、それは俺の辞めた直接の理由じゃない。

俺が仕事を辞めた本当のわけを彼女は知らない。

いや、彼女だけは知るはずが無い。

だが、そんなことはお構いなしに彼女は話しを続ける。

「・・・・違うね。でんでろ君のも本当は不安とか悩みとかあることは分かってたんだ。それでもいつも頑張っているから、凄い人だって思ってたんだね」

「・・・・俺はそんなに凄いやつじゃないよ」

謙遜ではなく正直にそう言った。

だが彼女がそんな風に俺のことを、見ていてくれたなんて夢にも思わなかった。

会社にいたころ、彼女と俺はそんなに仲が良かったわけじゃない。

彼女は人事課の所属で、新人の採用、またその採用後の世話をメインに働いていて、俺自身、就職試験の時から世話になった。

・・・・・彼女は覚えていないだろうが、俺が初めて朝立商事に来たときに受付をし

ていたのも彼女だ。

朝立商事のビルは小さくて、本来は総務である彼女が受付も兼ねていたのだ。

それから、廊下ですれ違ったら挨拶するくらいには仲良くなったが、会社の同僚と言う域を出てはない。

でも・・・、俺は彼女のことが・・・・。

「でんでろ君?」

突然、黙り込んだ俺に彼女は心配そうに声を掛けた。

「・・・いや、ちょっと考え事」

「なぁに?」

彼女は丸い瞳を、大きく開いて聞いてくる。

「・・・・朝立商事のこと。懐かしくてさ」

「私も。でんでろ君に会ったら昔のこと思い出しちゃった」

椅子を隣に持ってきて、ちょこんと座る彼女は遠い目をして、懐旧の情をその表情に覗か

せている。

「でんでろ君はどうして朝立商事に入ったの?」

「・・・・・・・Oさんは?」

俺が朝立商事に入ったのに特別な理由なんて無い。

俺のことを買い被っている彼女は、何か立派な理由があることを期待しているのだろう。

だから俺は彼女を幻滅させたくなくて、とっさに聞き返してしまった。

彼女は聞き返されたことを、何とも思わないのか、素直に自分が入社した理由を考えてい

るようだ。

「私はね。短大に通ってたんだけど、その後何をすればいいのか分からなくて・・・。だから就職活動とかもあまりしていなかったの」

そう。

彼女は短大卒で、俺より一年早く入社した。

そして一つ年下。

「だけど、周りの友達がどんどん内定とか決まってね。それで焦って受けたのが朝立商事だったの」

彼女には少し高い木の椅子から、足を投げ出して両手を合わせ、彼女は話しを続ける。

「まさか受かると思わなかったけどね。それで突然、合格だって言われて入社して・・・。

だから正直言って、あんまり深いわけは無いんだ」

笑う彼女。

先程から彼女は笑う時こちらを見ない。

「でも、今考えるとあのころも悪くなかったなって思うの。たしかに何となく入っちゃった会社だけど、そこに勤めていたのは何となくじゃなかったもの」

そのとき部屋の中に短い、断続的な電子音が響いた。

俺の洗濯機からだ。

それが合図であったかのように彼女は椅子から立ち上がって、俺をほんの少し見下ろして

言った。

「私が会社を辞めたのも、なんとなくじゃないの。辞めたいと思ったから辞めたのよ。会社に入るまでは、周りに流されてばかりだった私がどうして、そんな勇気が持てたか分かる?」

いつも穏やかで、優しい物言いだった彼女にしては珍しく、強い調子で尋ねてきた。

その表情にもいつもとは違う、確固たる意思が感じられる・・・。

彼女が勇気を持ったわけ・・・・?

「・・・・いや、分からないよ」

「・・・・そう」

彼女はひどく悲しそうにうつむいた。

しかしすぐに笑顔になって・・・空元気だと思う・・・声を張り上げた。

「でんでろ君、明日の夜、空いてる!?」

「明日?明日は・・・」

彼女が何故そんなことを聞くのか。

俺は少し、おかしな妄想をして心臓の動悸が早くなった。

いや、さっきから有り得ないくらいバクバク鳴っていたのだが・・・・。

俺はしばらく考えて、二年ぶりの彼女の顔を見て、答えた。

「空いてるよ。・・・どうして?」

「少し付き合ってもらえないかしら?2,3時間で済むと思うから」

「いいよ」

「良かった」

どこに連れて行かれるのか、聞かないまま俺は承諾した。

惚れてる女に弱いのは男の性だ。

俺じゃなくたって即答するに決まっている。

彼女はまだ座ったままの俺に視線を合わせるように、腰を屈めた。

「じゃあ、明日、夜八時に向こうの高校の校門前で待ち合わせね。場所分かる?」

「ああ」

その高校はバイトの帰り道だったから、この出不精の俺でも知っていた。

だが、どうして高校なんぞで待ち合わせをするのだろう?

・・・・再び部屋の中を電子音が響いた。

今度は彼女の洗濯機からだ。

「じゃあ、明日。忘れないでね」

彼女は微笑んで背を向けると、部屋の逆隅・・・彼女が元いた洗濯機の方・・・に歩き出した。

俺は彼女がそこに着くまで、その小さな背を見つめていた。

・・・・・・・とにかく、彼女とこれっきりにならなくて良かった。

俺は立ち上がり、彼女がそうするように洗濯物を洗濯籠に移し始める。

さて、明日のバイトはどう言い訳して休んだものか・・・。

 

 

 

 

 

「先輩?」

「おー、どうした?忘れ物か?」

「どうしたって・・・。先輩こそどうしたんですか?もう十時過ぎですよ?」

「もうそんな時間か・・・。いや、あとちょっとやったら帰るつもりだったんだけど、区切りのいいところが無くてな」

「卒論ですか?あとちょっとって、いつ思ったんです?」

「・・・六時くらいかな」

「もう四時間も前じゃないですか・・・。先輩、最近頑張りすぎですよ」

「そうだな・・・。ま、あとちょっとしたら帰るよ」

「またそんなこと言って・・・。そんなだから結局、泊り込みとかになるんじゃないですか」

「大丈夫だって」

「もう。先輩、日ごろから生活乱れすぎなんですよ。だから余計な心配しちゃうんじゃないですか・・」

「うん。ありがとな」

「・・・・・」

「・・・・・」

「で?何しに来たんだ?」

「先輩のことが心配だから、後輩の中でジャンケンして、それで負けた私が様子を見に行くことになったんですよ」

「・・・・そうなのか?」

「ほんとは先輩が居残りしてること知ってたんですよ。まさかこんな時間まで残っている

とは思わなかったですけど・・・・」

「そりゃ、・・・・悪かったな」

「・・・・・・・」

「・・・・・・・」

「いい夜ですね・・・・」

「ああ。虫の鳴き声が聞こえるな。秋の夜長ってやつか・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「先輩、その卒論書き終わったら卒業しちゃうんですね・・・」

「まぁな。正直実感なんて無いけど。高校とか、中学とかもそんな感じだったしな」

「・・・先輩のことだけじゃないけど、・・・・寂しくなります」

「別に今生の別れってわけじゃないだろ」

「でも、先輩は東京に行っちゃうんでしょう?」

「・・・・たまには帰ってくるよ」

「先輩・・・」

「そりゃあ・・・、俺だってほんとは・・・・・」

「・・・・・・」

「俺だって、お前と・・・・」

「私と・・・・?」

「・・・・・・・」

「・・・・・・・」

「・・・・・・すまん」

「私、・・・・・・帰ります」

「・・・・・・・送るよ」

「結構です」

「・・・・・そうか」

 

 

俺は彼女を引きとめることもしなかった。

 

 

 

 

また夢か・・・・。

あの時、俺はなぜ彼女に打ち明けることができなかったのだろう。

たぶん俺は怖かったんだ。

当時就職の決まっていた俺は、卒業してしまえば東京に行かなければならなかったから。

自信が無かったから。

・・・・・・つくづく何もできない男だな。

暗い部屋の中、ベッドの上で俺は羞恥心から顔を覆った。

違うか・・・。

それだけではないと、思う。

彼女に思いを打ち明けられなかったのは、怖かったからだけではない、と。

あの人だ。

・・・・・・・・・・・・Oさん。

俺の心をたった一瞬で奪った女性。

自分のことを慕ってくれる後輩よりも、たった一度会っただけの、あの人に俺はもうあの

時恋していたんだ。

額を押さえ、自嘲気味に笑う。

 

 

なら、どうして俺はOさんに思いを伝えなかったんだ・・・・?

 

 

 

 

(少し早かったか・・・?)

夜の帳はとっくに降りて、俺の頭上では完全に満ちた月が、薄黄色く輝いていた。

高校の校門前。

その名が刻まれた大理石のプレートに、俺は寄り掛かり彼女が来るのを待った。

もう2学期は始まっているはずだが、高校生が部活動で、こんな時間まで残っていることはない。

事実、校舎はすでに電気が落ちて人影は無い。

なぜ彼女がこんなところを待ち合わせの場所に選んだのか、考えてみたが結局分からなか

った。

こんな時間から、どこかに行こうというわけではないだろう。

2,3時間で済むと彼女は言っていたし、もし遠くに行くと言うのなら、駅で待ち合わせをしているはずだろうから。

(本当に分からないな・・・)

秋の始まり、夏の終わり。

こんな季節はいつも決まってセンチメンタルな気分になってしまう。

そういえば、中学の文化祭準備のあの日も、高校のあの子と話したあの日も、大学で独り

卒論を書いていたあの夜でさえ、すべてこの季節だったと思う。

いつも思い出すのはこの季節・・・。

いつか今日のことも思い出すことがあるのだろうか。

(でも俺は今ここで生きている・・・)

俺は何を弱気になっているのだろう。

今日、何が起こるかなんてまだ何も分かりはしない。

(こんな気持ちは久しぶりだ)

生きている気がしないなんて最近の若者は言うけれど、いつの間にか俺もそんな気分に浸っていたのかもしれない。

(もしかしたら今日、俺は変われるかもしれない)

変えてくれるのは彼女か・・・。

果たして自分から変わろうとしない人間が変われるのだろうか?

 

 

 

 

「ごめん、待った?」

「いや、・・・・何?その格好?」

校門から出てきた彼女・・・O嬢は高校生と見紛うジャージ姿だった。

いや、背の低い彼女だから、中学生だと言われても信じてしまうかもしれない。・・・・?

校門から出てきた?

「・・・・なんで中から出てくるの?」

「ここ私の母校なの」

彼女は校舎を指差して言った。

「・・・・母校?」

俺は思わず中を覗き込む。

「母校って・・・、Oさん、この高校の出身ってこと?」

「そうよ」

・・・・・・?

「Oさん、関西の出身じゃなかったっけ?」

「うん。よく覚えてたね。でも向こうに居たのは中学までなの」

彼女は先ほどまで、俺が寄りかかっていた高校名の刻まれたプレートを懐かしそうに、そして、いとおしげに右手で優しく撫でた。

「ほら、昨日話した叔母さんの家から通っていたのよ。どうしてこっちの高校受験しようと思ったのかは、あまり覚えてないけど、ここでの生活はとっても楽しかったわ」

こちらを見ずに、校門の壁に向かって話していた彼女は、そのままこちらに聞いてきた。

「でんでろ君にもあるでしょ?学生のころの思い出とか」

「・・・・まぁね」

最近思い出してしまった苦々しい思い出のことを考えながら、俺は答えた。

「私、叔母さんの雑貨店が忙しくないとき、この高校のバドミントン部のコーチをしてるの。OGだから」

「・・・・。バトミントンやってたんだ」

「バドミントンね」

細かいところを訂正してくる彼女。

バドミントンか・・・。

俺は彼女の意外な一面を初めて知った。

俺の中の彼女のイメージにスポーツをやっている姿はなかったが、きっとそれは俺の自分勝手な想像だったからだろう。

いや、一回だけ一緒にテニスをしたことがあったか・・・。

「ねぇ、でんでろ君。覚えてる?」

「え?」

唐突に彼女は聞いてきた。

「昔、一度だけ一緒にテニスしたこと」

「・・・・覚えてるよ」

驚いた。

彼女は俺の心の中を見透かしたように、考えていたことを言ってきたからだ。

「あの時少し話し、したよね。私、全然できなくてさ。バドミントンとは全然勝手が違うんだもん」

笑顔で話しを続けるOさん。

「でんでろ君は上手だったなぁ。初心者だって言ってたけど信じられなかったくらい」

・・・・・・・。

「それで?今日はどうするの?」

「あぁ、そうね。今日は部活はなかったのだけど、明日は大会があるの。それでその準備を手伝ってもらおうと思って」

「なるほどね」

と、気づく。

「今日、部活がなかったって?明日、大会なのに?」

「私だって、ほんとは練習しないとまずいと思ったんだけどね。今、テスト期間中だから部活動できないのよ」

彼女は困り顔で言った。

「ああ。休み明けテストか。そういや俺の高校でもあったな」

「でんでろ君のとこにも?やっぱり全国共通なのかしら。夏休み中、生徒がだらけ過ぎるのを少しでも抑止したいんでしょうね、きっと」

「明日の大会って凄いものなのかい?」

「たいしたことはないわよ。夏の全国大会で三年が引退したから、その変わりの新レギュラーができて、それの顔見せのための大会だから」

彼女は一呼吸置いて続ける。

「だから別に勝たなくてもいいんだけどね。うちが開催校だし、新レギュラー最初の試合だから、いい波に乗せてあげたいの」

「けっこう熱心なんだね」

「うん。今日の準備だって本当は生徒達にやらせればいいんだけど。でも明日の試合に控えて、しっかり休んでもらうことにしたの」

ここには遠くの蛍光灯からの明かりしか届かないが、照れ笑いをする彼女の顔は、はっきりと俺の目に映っていた。

「だけど私ひとりでやるのは、さすがにきついかなって思ってたわ。だから昨日でんでろ君に会ったとき、つい何も言わずに付き合ってくれなんて言っちゃったの。ごめんなさい」

「いいよ。俺も別にやることなかったし・・・」

一呼吸置く俺。

「それに・・・」

この先は言うべきか、否か・・・。

  自分から変わろうとしない人間が変われるのか?

俺は意を決して後を続けた。

「Oさんと、もっと話しがしたかったしね」

その言葉を聞いた彼女は、驚いた顔をして・・・しばらくして笑ってくれた。

「行きましょ」

俺と彼女は二人、暗い校舎の中へと歩いて行った。

 

 

 

 

 

「でんでろ君!」

「・・・・Oさん」

「お疲れ様。今日はもう上がり?もう仕事には慣れた?」

「おかげ様で・・・。Oさんも仕事上がり?」

「ええ。よかったら、そこまで一緒に行かない?」

「・・・いいですけど」

「でんでろ君ってなんだか、いつも敬語ね。私のほうが年下なんだから普通に話していいのよ」

「そうですか?」

「そうよ。今だって普通に『そうかな?』でいいのよ」

「・・・そうかな?」

「そうそう。その調子」

「・・・・・・」

「それでどう?仕事の方は?分からないこととか、困ってることとか無い?なんでも相談してくれていいのよ」

「はぁ」

「あ!もちろん仕事のことでアドバイスできるほど私は詳しいわけじゃないけど、でんでろ君がやりやすいように便宜を計ることくらいはできるのよ?」

「・・・ありがとう」

「いいのよ。それが私の仕事なんだし、でんでろ君みたいな優秀な新人君には頑張ってもらいたいのよ」

「・・・・・・・・・」

「でんでろ君?」

「・・・いや、なんでもないんです」

「口調、戻ってるわよ」

「・・・・なんでもないよ」

「・・・でんでろ君、なんだか元気がないような気がするんだけど。大丈夫?」

「・・・・・・・・」

「でんでろ君?」

「・・・・・・・・・・Oさん、実は俺、今日で・・・」

「今日で?」

「俺、今日で・・・・」

 

 

 

俺はうつむいたまま、彼女の顔を直視することができなくなってしまった・・・。

「すいません。俺、忘れ物したから戻ります!」

 

 

彼女を置き去りにして俺は駆け出していた。

忘れ物をしたなんて嘘だ。

・・・・この日は、俺が会社を辞めた日だ。

でもそんなこと、彼女に言えるわけが無い。

もう、彼女に会うこともなく、辞めるつもりだったんだ・・・・。

 

 

 

 

 

「でんでろ君?」

彼女の声が聞こえて、俺は顔を上げた。

「・・・・終わった?」

「ええ」

体育館内での作業が終わり、彼女が職員室に鍵を返しに行っていた。

そして俺は、体育館前にある三段だけの石の階段に腰掛け、彼女が来るのを待っていたのだ。

「本当に今日はありがとう、でんでろ君。君のおかげで思ったより、ずっと早く終わったわ」

「どういたしまして」

俺は立ち上がって、彼女の隣まで歩いていった。

「でんでろ君、もう少しいい?行きたいところがあるの」

「・・・?いいけど、どこ?」

月明かりの下で彼女は照れ笑いを浮かべる。

「たいした所じゃないわ。・・・・・・・三年生のときの教室よ」

 

 

 

 

 

「懐かしいわ。全然変わってないわね」

彼女は教室の中に入ると電気もつけずに、一番左後ろの席まで歩いていった。

「ここ。私の席」

彼女は机をポンポンと叩いて椅子を引いて座る。

「私ね。隅っこが好きで、いつも席替えのときここにしてたの。・・・・私の先生、席替え好きな所、選んでいいって人だったから」

・・・・・・・。

「って言っても、ジャンケンで勝った順に選んでいくから、あんまりここにはなれなかったけど・・・。私ジャンケン弱いの」

「俺も隅っこの席になるのが嬉しかったよ。俺はくじ引きだったから、滅多にならなかったけど」

「でんでろ君も?ここからだと外が見れていいのよね。体育の授業やってたりすると、それを見るのが楽しくて」

俺は彼女の前の席に座った。

たしかにここ・・・三階だが・・・からはグラウンドが一望できる。

月明かりが淡い照明となり、教室に射し込む。

「・・・・もう、5年も前になるのかな」

「俺は、もうちょい前かな」

ひとけの無い教室。

ひとけの無い学校。

「ねぇ、でんでろ君?」

「なに?」

彼女は外を見たまま・・・グラウンドを見ているのか、それとも夜空の月を見ているのか・・・

尋ねてきた。

「私と初めて会ったときのこと、覚えてる?」

「・・・・入社した頃のこと?」

彼女は、やっぱりといった顔をして、首を横に振る。

「でんでろ君が就職試験受けに来た時。私が受付してたんだよ」

・・・・・・・・。

彼女の表情をこれ以上見ていられずに、俺は外を向いた。

「・・・・知ってたよ。でもOさんが覚えているとは思わなかった」

・・・・・・・彼女は笑った。

「こうしていると、でんでろ君と私、同級生みたいね」

「・・・・・・夜中の十時に、教室に残っている高校生はいないと思うけど」

「そうね」

・・・・・・・二人で笑った。

「ねぇ、でんでろ君。どうして私達、会社を辞めたのかしら?」

月明かりに照らされた彼女の横顔。

「・・・・本当は私、何がしたいのかな?」

窓から見える空は、雲がかかり、それでも月は居場所を失くさない。

 

Sentimental

哀愁。

感傷。

 

彼女も今、俺と同じ気持ちでいるのだろうか?

 

「ねぇ、でんでろ君」

彼女は立ち上がって、

誰もいない教室で、

踊るように、優雅に、その身を一周、回転させて、

笑顔で言った。

 

 

 

 

「就職しようよ」

 

 

 

 

 

 

「一緒に就職しようよ、もう一度」

彼女は繰り返す。

「でんでろ君と一緒なら、きっと楽しいわ。二人一緒なら・・・今度こそ」

彼女は勇気の無い女だったと、彼女自身が言っていた。

その彼女を変えたものが一体なんだったのか。

いや、誰だったのか。

人が自分で変わるのではなく、誰かに変えてもらえるというのなら。

俺も変われるかもしれない。

お互いに、二人で変わり、変えられると言うのなら、いつか想いを伝えられる日が来るかもしれない。

二人きりの教室。

就職するのも、彼女と二人ならば悪くない。

 

 

 

俺は彼女と同じ月明かりの下で、うなずいた。

 

 

 

 

 

 

                   終